幸いの時

土曜午後3時。道路はやや混んでいた。奥多摩まで約2時間。乗っていた生徒は3人。中3のアブラと、大学新入生のドラゴン暗渠マンと、アブラが勝手に声をかけた小5クセ者キックボクサー。アブラがふとアタマに思いついたことを質問してくるので、みんなその相手に「辟易」。私は無視。キックボクサーは「利口」、片言しか応じない。ドラゴンは、「それでそれはいったいどのような意味を伝えたいために我々に話しているのか?」などとやや親切に応じている。
アブラは、「〜っていうの・・・・・するのがあるんですが・・・」などとは言わない。決まって、「〜って知っていますか?」と問いかける。
「知らない」
そう答えるとここで会話が途切れる。そこでしびれを切らした者から「それで?」と求められてその説明を始めるが、そもそも瞬間的にアタマに浮かんだイメージを元に発語しているので、まるで見た夢を後から説明しているようにおぼつかなくなる。
アタマに浮かんだことを誰かと共有したい。それに関することを知っているかと周囲に話しかける。しかし相手の状態は考えない。いや、考えることができない。自分の「イメージ」の連続と共感を求める。相手が聴く気がなくても話し続ける。こういう人もいる。これは習慣なのか、それとも性質なのか、「疾患」なのか。これは「富澤師」と同じ癖である。彼は相手が聞く気がなくとも話し続ける人だった。
他人が面白くないと思うことを個人勝手に「面白い」と思い、それを他人と共有したいと思う人もいる。
しかし、彼の話の一つをしつこく根掘りして聞いていくと、当然の如く、学校で「いじめ」にあっていることも浮かび上がる。これも聞くのも面倒なかつたわいもない話なのであるが、ある子が彼のカバンを別の子の机の上に勝手に移したので、「何をするか、ふざけるな!」と「松永先生の口調」で真似して言ったら、相手が「いやふざけてはいない!」と言ったので、切り返すことができず怒り心頭に達して先生に言いつけたとのこと。
「ダメじゃないか。言葉で言い負けるのはダサい!小学生ではあるまいし、先生に言いつけるってのはねえ・・・・」
「じゃあそういう時、どう言い返したらいいんですか?」
車中皆その答えを求めるが「答え」は出ない。
仕方がないので「答え」の一つを教える。
「では演習する。自分ではなく相手の立場で、『ふざけるな!』と言われると、『ふざけていない!』と答えることは簡単なことだからよくあることであるからそう言ってくる、そこでこちらは、怯まずに瞬間的に言い返すことが肝要。『ホラ、今現にふざけたことを言ってるじゃん。それに自覚的でないの?アタマ大丈夫?』と。これで多分相手は沈黙し、以降オマエに話しかけるのを控えるようになるはずである。
17時30分現地着。
すると、すでに何人かが集まっており、焚き火を起こそうとしている。しかし、前夜雨が激しく降ったので炉が湿っていて、なかなか火を起こせない。送風機を渡す。どんどん参加者が到着。総勢10名。
火が起こると、アブラのお母様から差し入れの豚トロ1キロで、みんなで焚き火の「穴」を囲んで「串焼き部隊」。
なんかすごく慣れた当たり前の感じ。もう5年以上参加して「年季」が入った感じの者たちもいる。
小中高大が集まって話をする。その話し方は「自在」で、相手の言っていることをよく掴んだ上で瞬発的に反応し、その結果もっと面白いことの想起につながっていく。これは音読教育の成果に違いない。しかも彼らは皆よく文章を書く。ともあれ、友達以上の「兄弟」があることは素晴らしい。
その彼らの話していることを片耳に挟んで驚いた。彼らはフリースクール一般のことを話題にしているのである。
「Hiru-netは、他のフリースクールとレベルが違う。やっていることとアタマの使い方が全く異なっている」
どういうことだろうか。わかる気はするが・・・。
この後、「料理人」が、すべて生産者から直接購入してきた自然食素材の晩餐。
ポテトサラダ、ほうれん草のお浸し、インゲン胡麻和え、ナスとオクラの煮浸し、鶏そぼろダイコン、トマト、京菜のサラダ。ご飯は5キロ3000円の魚沼コシヒカリ。そしてそもそもの「メイン」のつもりはあらかじめ手作りした「餃子100個」だそうだが、これに鳥取倉吉から来た特性ラー油を垂らすと最高に美味しい。
私も口にしたが、誰もかもが口にする。「どれもこれもみんな美味しい!」
その通りである。材料が良い。しかも調理人の味覚レベルが向上し続けている感触。
どれもおいしくないわけがない。
「美味しい」ことの共有は「power」を齎す。
夏の合宿はいかなることになるのか。
こうして子供大人合わせて約13名が、古民家裸電球の下、みんなでワイワイと夕餉の時間を過ごす。
確かにとても「美味しい」。そして、それをみんなで共鳴し合える。
「幸せ」である。
ゆえに、彼らにこの「経験」を与えたスタッフは「幸福」である。
彼らは自らの発現により意味あることをして、子どもたちにまたとない「エネルギー吸収」の機会を与え、そのことによりその「存在理由」を噛み締めている「存在」である。
夕食後闇夜に、多くの見送りの下、帰宅した。
空いてはいてもやはり70分はかかる。
明る朝から5件の仕事をこなして帰宅してこれを記す。
雨降ってきたが、今頃「スタッフ」は、ツルツル温泉に浸かっていると見る。
こころより「お疲れ様でした」と言いたい。
奥多摩合宿は最高である。

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