奥多摩合宿ー8

合宿中日を過ぎて、ついに「村長」が、「もう7時」と口にした。
新しく途中参加した中2のT本君は、ちょうど帰ったばかりの中2アンモナイトT君と同じ、誠実で真面目ゆえに、学校教育で能力伸長を抑えられてしまったタイプ。前にも書いたが、私は私と逆タイプのこの種のタイプの生徒に深い同情の念を禁じ得ない。
この国の学校教育は最低である。「同一民族」社会だから、その社会内に底辺を支えて納税する労働者の生産が必要なのはわかる。しかしそれは学校教育についていけなかった者を筆頭に、単に学歴があればなんとかなると思い込まされた「優等くん」だけではなく、中間層の大人しく真面目な性格の子どもたちの多くを、その潜在する「才能」を捨象し、労働と娯楽に埋没することを選択せざるを得ない立場に追い込む。これは明らかに「民主主義」を標榜する政治倫理的にナンセンスなことである。実は、言うことを聞かせるだけの「教育」は、それによって、知能向上とその人だけの特殊性を奪うことを目的とする。もはや「不登校」がなぜ起きるのかは分かりきったことで、わからないことにして隠し多そうとしていることに他ならないことになろう。その意味で、我々「大人」の罪は重く深い。
我が国の学校教育は、特に学力中程度のその伸長のある可能性のある子どもの知能と個性を奪い、単なるいつでもすげ替えが可能な、あたかも(失礼ながら)外国人労働者を導入する施策と同じ、極めて「残酷な」側面を当然の如く実行し続けるものなのである。そこには「バカはコントロール可能」と言う大手広告会社的前提思想があり、それはある意味非常に正しい。人は簡単に騙されることに自覚的でない。そしてそのことによってこの資本主義的社会が成立しているのは明らか。
外資系企業などに勤めて、あるいは海外の日本企業支店で働いて、あたかもブレディイ・ミカコさんの如く、外の世界を知ってしまった人たちは、日本の教育に全く未来がないことを見破ってしまう。
だから、「教育」は、このことに気づかない人たちの子どもたちを「均質化」するという明治以来のやり方を正しいものとして行われ続けることを呈し続けるである。多くの人が漢字が読めない墾田永年私財法の時代と同じである。そして、これを嫌ってゲーム中毒に陥って読み書きに劣った多くの子どもたちを待ち受けるのは、未来における指示された決められたことだけをする低賃金「単純労働」ということになるのである。そして、余暇時間は、ゲームなど他者が与える「娯楽」で過ごすということになるのである。このことに「覚醒」する親とそうではない親の子どもの未来幸福の差は大きい。人の人生90年、「バカでした〜」と言い訳するには長すぎる。
暑さが増す午前、なぜか生徒たちは本格的には学習を厭わない。それは、昼食だけではなく、その後の「楽しみ」に想いを馳せるからであろう。
原と大沢の創意工夫に満ちた栄養満点の美味しい昼ごはんが終わると、そこには当然の如くなんとも不思議な空気と気分が醸成され始める。なんと言ったら良いのだろう?指示もされぬに、皆思い思いに自分勝手に川へ入る準備をし始めて、さあ全員レッツゴー!「ぶっ殺す!」「溺死体にする!」「覚悟しろ!」「覚えていろよ!」「この電車は車庫に入るのでご乗車できません」とか、何か普段口にできない男の子たちならではの乱暴なセリフを口々に叫び、意味もなく盛り上がりことうるさいこと甚だしい。しかもこれをダイナマイトTが、鉄道車掌の解説付きで行進するから、完全解放されたマンガの世界。
川へ着けば、即座に飛び込み、急流に流され、次々に高台から深瀬に飛び込み、飽くことを知らない。男の子たちの集団が思いのままに遊ぶ情景は、我々に本当の「幸福感」を与える。
―遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそゆるがるれ!
その中で、新参加の中2T君は、川に入りつつ、石を拾いそれを一身にナイフ状に研ぐ。その「特殊性」を「特殊の塊」の集団が驚いて評価する。なぜか一目置く。この子にも、潜在する素晴らしい可能性がある。それを研いで削ぎ落としてはならないと念じる。そうではなくよりシャープにそれを顕現させるように教育環境設定するのが我々の仕事なのだ。キミタチはキミタチのままで良い。人から与えられるものではなく、キミタチの内部に偶然持って生まれたものを顕現させるように努力することこそが正しいことなのだ。「教育」に負けるな!
午前4時半起床で約7時間の自己学習。午後からは川。温度がやや下がりつつある夕方、ひぐらしの声を聞きながらもう一度学習。そして焚き火。夕食。セッション。20時就寝。毎日この連続あるのみ。そこで年齢の異なる子どもたちがさまざまな体験を通じて、自己の可能性を再認識する。その教育環境設定をするのがこの合宿である。
こんなヘンな合宿に参加するのであるから、親も子どももかなり「特殊」なはずである。
でもここではそれが問題にならない。かえって個性を顕現させて止むことがない「場」が現象する。
ここには学校教育逆説的に「特殊」がない。
近地満月は間も無くやって来る。
これを自覚的にこなすにはまだ齢が若いが、「運」の良い者は、「成就」の実感を手にすることだろう。
暑さの疲れのため、「冗談」で書いていることをいささか忘れて書いた。

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