国語選択肢、抜き出し、穴埋め問題の一般化の背景と影響について

私は、「教育環境設定コンサルタント」、「能力開発インストラクター」としての仕事をしているが、その実は入試国語、特に記述解答の指導が専門である。ところが最近、入試国語問題が易化し、自分で考えて答えを書くという設問が減り、「答えに該当する部分を文章中から〜字で抜き出しなさい」とか、「次の文章の枠内に文章中の言葉を抜き出して埋めなさい」と言った「擬似記述問題」が多くなってきている。そうして入学試験問題の大半は選択肢問題になっているところがほとんどであるのが実情である。
中学入試では、筑駒、開成、麻布、武蔵などの古くからの超上位校では、相変わらず自分で考えて答えを書く記述解答が主体ではあるが、その設問は以前より易しいものになっている。それより下の学校でなんとか頑張って記述主体の試験を行なってきた学校も、徐々に抜き出し主体の「擬似記述問題」の出題になってきている。これは採点の都合上のためだけではなく、自分で考えて答えを書くという出題をすると白紙になる答案が多いからであると思われる。
大学入試でも、京大、東大などの国立大学の記述問題も易化している。私立では、慶応などを除いて、入試国語は完全に選択肢マークというところがほとんどである。慶應大はそもそも国語の試験がない。小論文の試験が主体である。
大学入試の旧センター試験では、最後の10年間ほどは、いくら問題を易しくしても平均点が上がらないので、ついにはそれを継いだ新共通テストでは、さらに易しい出題になっている。また、2015年からの「高大接続システム改革」でも、国語記述の出題をすると白紙答案が多くなるということで、表向きは「採点者を確保できない」という理由で記述問題の出題が断念された。
国語記述の得意な者は、国語選択肢問題においても高得点する。書けるようになっている者は、選択肢を書いている者がそれをどういう意味でそれを書いているのか読み取ることができるからである。ということは、国語記述ができるようになっている者は、選択肢や抜き出しの問題で高得点するから、やはり成績上位に入る。入学試験としてはそれで申し分ない。すると試験の目的は、選択肢や抜き出しですら苦手な、国語力未然の子どもの「排除」ということになるのか。
ここで問いを発したい。
―子どもの国語力が弱いのは、その子どものせいなのか、それともその環境、あるいは教育が悪いからなのではないか。
前からここに述べているように、大学とは自分の学んだことについて自分の考えを記述する能力を前提とする高等教育機関である。しかし、この国で小学校から高等学校まで12年間国語教育を受けても自分の考えを記述化できるようになる者はごく一部である。つまり学校授業では文章が書けるようにはならない。教えない。そして生徒たちは、選択肢、抜き出し、穴埋めの能力が国語力であると錯覚する。つまり、「記述ができなくても構わない」と思う人たちが増加する。
自分の考えを文章化できないということは、自分で考える力がないということになってしまう。たとえ考えてもきちんと言葉で表明できなければ意味がない。
「支配」とは、言語力の高い者が、自分の考えていることを、下部の者に言語的に理解されなくとも信じ込ませる(あるいは容認させる)ことによって成立している。考えることができないとは「支配」されていることであり、ある意味、「市民」として生きていることではなくなってしまう。
国民の国語力を決定する国語試験が、選択肢、穴埋め、抜き出しばかりになる。するとますます多くの者が、文章記述をまともに学習しないことになる。逆に、文章記述さえできれば大学に進学する「資格」があることになる。
国語ができるようにするためには、まず第一に日本語古典に接してその音を学ばせることが必要である。これまでの実践から、これが「一番の近道」であると断言できる。そしてそこで、日本文の意味の伝達とリズムを体得すれば、文章を書き始めることができる。
これは全ての子どもに可能なメソッドで、そうすれば国語ができるようになるだけでなく、自分で考えて文章を書くことができるようにもなり、他の教科の学習においても自分でテキストを読んで理解することができるようになる。そうして、大学が欲しいのはそうした人材であり、その下の高校も中学も、そうした素養がある生徒が欲しいのであるが、国民全体の国語力がめっちゃ下がって、当然その環境下で育まれる子どもたちの国語力も劣化しているので、記述の試験をすることができないディレンマに陥っていると見る。この中で生き残った者が、未来社会で頭角を表す人材になるということなのか。あらゆる「支配」は言語で行われ、「学問」の目的とは自ら考える力、つまり「主体性」の獲得であることを忘れてはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?