「遊び?」について

普段決して出遭うことのないタイプの大人。しかも「先生」。
少し様子確認の会話をすると、尋ねる。
別に何をやるかはだいたい決まっているのだが、
「今日は何して遊ぶ?」
「遊び?」
「そうさ、指も、声も、アタマもみんな賢くなるための遊びだ」
「じゃあサイコロ計算」
「計算じゃなくて遊びだ。サイコロ遊び」
しばし「遊んだ」のち、
「次は?」
「指!」―「キャロム」とは言わない。
キャロムが終わると、次は音読=「声」。
「いつ終わるの?」
「それはキミが遊び疲れておしまいにしたくなった時」
多いのは最初にキャロムであるが、これは最初から意識を飛ばせるのでリーズナブルである。また、いきなり「作文」ということもある。
生徒に順番を選ばせること。しかもそれを「遊び」と呼ぶこと。アタマが良くなるための「遊び」と思わせること。
これは生徒に学ぶこということにおける主体性を学ばせる「手法」の一つである。
「モンテッソーリ」教育の個人教授の場への応用であるが、やることを生徒に選ばせてそこで主体的に遊ぶことを学ばせる。
その「習慣」、あるいは「能力」は、中学以降の学力向上の礎となる。
「遊び」とはアタマが良くなるためのもの、そのことに意識的にさせる。

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