雨の中の旅
「いのちの祭り」についての記述を試みるうち、結局続けて書けなくなった。それは、それまでのアタマの働きを用いた書き方ではなせないことであることが了解されたからである。ではそれが、日々次々に現れる興味深いことを押し留めて悶々とさせるかと言うとそうでもない。過ぎたことは次々に「過去」に飛んで行ってしまう。
私には新しい文体、新しい表現方法が必要である。
それは伝えるためであると言うよりも、何かを的確に記述するためのものである。
66歳、こんな歳になっても新たにその「限界」を知り、それを「打破」する必要性に見舞われてしまう。
旅に出て思うこと。それは新たなる出会いと同時に古くからの「同胞」の健在の確認。
東大阪生駒西側斜面の波動と阪奈自動車道貫通との関係。
水かさの増した天龍川の流れ。
鳥取の生活芸術家との「洗脳論」の概ね正しかったことの確認。
県民誰もがなるとは思わなかった石破首相。
プロのジャズ歌手の歌いと演奏による酔い。
美作の芸術家夫妻との再邂逅。
浜松での芸術家たちの生き様。
そしてカタカムナ音読関係者の健在。
活動の連続の素晴らしさ、美しさ。
これらは全て雨の中。
どこまで行っても雨、雨、雨。
考えてみればいのちの祭りも雨だった。
焚き火は心を、雨は地表を洗い流す。