私の魚遍歴ー改稿

春が来て、WAVEもチェンジして、クロッカスが咲き、池にカエルが集まり、多くの球根が目を噴いた。
今年の受験も、思うところはあるが、つつがなく過ぎゆき、一段落して、自分も何か次のことをおっ始めたいという気分を禁じ得ない。
『私の魚遍歴』、題としては若干イマイチの感があるが、多くの人に喜んでいただいたらしく、極めて光栄である。
私の読書は、セルバンテス『ドン・キホーテ』から『イーリアス』に移りつつ、同時にボルヘスを読み刺し、結局『セルバンテス模範集』(岩波文庫では『短編集』)が就寝前のものに相なっているが、なぜか久しぶりでモンテーニュやバルザックを読みたい気分に襲われている。
種々の出版予定を前にして、ではそれを全体抽象化して、自分の書きたいことは何かとダイアローグするも、春の花粉のおとぼけで、その答えは春霞のごとし。今週末、満月奥多摩で次の方向性を占わんとする自分がいる。
以下は、『私の魚遍歴』のとりあえずの「最終稿」で、読みやすくするために、初めより編集したものである。

『私の魚遍歴』

その店は環状7号線大和陸橋を野方方面側に降りた歩道橋のところにあった。
青い屋根に大きく赤い座布団のような魚の絵と「マンボウ」と言う文字があった。
自転車でどこへでも出かける、どこでも図々しく入り込む、そして遠慮しないで質問しまくるー今も変わらないっちゃー変わらないが、それが子どもの頃の私だった。
ずらりと熱帯魚の水槽が並んだ店の中にいた40歳くらいの男の人は、勤め人の父親や周囲の大人と違う雰囲気を持っていた。それは、今にして思うと、「職人の匂い」とも言えるものだったが、この人は職人によく見られる粗雑な言葉遣いをしなかった。かと言って、商売人が使うのとは異なる言葉遣いをする人だった。奥様は淑やかな美人だったが、目の下に青あざがあった。
「おじさん、マンボウはどこにいるの?」
「マンボウは店の名。水槽では飼えないよ」
職人の職場が好きなのは今でも変わらないが、熱帯魚屋の中は見ているだけで楽しい。見たこともない多くの種類の美しい熱帯魚、いろいろな装置。しかも店主の話は私をうっとりさせた。ここで売られている魚の多くは、実はこの人が産卵孵化させて育てたものだった。
熱帯魚屋にはあまり人が来ない。また同じ人しか来ない。毎日のように通っていると、お客の一人に息子と間違えられた。
しかし、毎日見ていると当然の如く自分もこれを家でやりたくなってくる。それには子どもでは出せないお金がいる。
「60センチ水槽を買って欲しい」
家でこう言うと、父親は怒った。
「何言っているんだ。いったいお前はどれぐらい魚を飼おうと言うのか。そもそも玄関のところの水槽に入りきらなくなったので、庭にTさん(母の一番下の弟=叔父)と池を作ってやったではないか。そこへも毎週これでもかこれでもかとお前が池や釣り堀に行くたびに釣った魚を入れるからもう満杯。毎日のように死んだ魚が出ている。もううちで釣り堀を始めたほうがいいくらいではないか。玄関には、カメ、タニシ、ザリガニのバケツが並び、脱いだ靴の置き場もない。匂いもひどい。これ以上魚を飼ってどうすると言うんだ。もうごめんだ。絶対に許さん!」
それは事実だった。事実釣り堀では、「坊や、他の人の邪魔だから混んでいる時はあまり来ないで」とか、「持って帰る魚には制限がある。キミは10匹まで」とか言われていた。この釣りの話だけでも長くなってしまうのでここではやめるが、善福寺や武蔵関の池では、クチボソなら半日で200匹以上釣る技術も持っていた。また、釣った以上は捨てられない。「リリース」なんて考えもしなかった。仕方がないので余った魚を小便小僧のある学校裏門の池に放流していたが、ある時理科の教師に見つかって、「もういい加減にしろ!」と言われてしまった。
そんなこんなで、熱帯魚を飼うことは一先ずお手上げになった。大人になってからの「夢」と言うことになってしまった。
しかし中学に入って、なんとかしてこの夢を実現したいと思うようになった。
そしてそれは、今考えると信じられないやり方で実現した。

手賀沼は、千葉県北部にある利根川水系の湖沼である。
あれは確か「マンボウ」に出遭う直前のことだった。我孫子市郊外に母の従姉妹の女性が新居を構えたと言うので、そのお祝いに連れて行かれた。
そこは手賀沼のすぐ近くで、消防士だというご主人は長靴につなぎのような姿で現れ、手には網を持っていた。
「坊、手賀沼へ行くぜ!」
手賀沼は、善福寺や武蔵関の池とは違って完全に湖だった。左右に広く拡がり、対岸までも相当距離があるように思えた。
葦の間を分け入っていくと、水辺につき、そこに魚取りをしている子どもたちがいた。
ご主人はニコニコして気さくに声をかける。
「何を獲っているの?」
「ザリガニだよ」
「その小さいのは?」
「アカベンタ、タナゴだよ」
私はこの言葉に驚いた。東京の池でタナゴが獲れることはまずなかった。
しかもそのタナゴは、赤みを差した体に、金や銀の、そして緑がかった銀の粉を塗したような姿で実に美しかった。
思わず聞いてしまった。
「これっていっぱい獲れるの?」
「ああ、特に下の橋の方に行くとうじゃうじゃいるよ」
「シモってどっち?」
「あっち、あっちのずっと先」と左手奥を指した。
「セルビンで取れる?」
「なにそれ?」
「セルビンだよ」
「そんなの知らない」
「セルビン」とは、今で言う太いペットボトルのお尻のところが内側へ向けての穴になっているプラスティクの筒で、これにさなぎ粉を入れてしばらく沈めていると、魚が入って出られなくなって獲れるという仕掛けで、釣り道具屋で確か一つ300円で売っていた。ちなみにこの300円とは釣り堀の1時間の料金だった。ついでながら、当時、肉屋のコロッケが1枚10円、とんかつが30円、ラーメンが80円だった。
この日は、他のところを回って、鮒や鯉が釣れていることを知ったが、タナゴの情報はアタマにこびりついて離れなかった。
とにかく、次回来たときに、準備を整えて、その「下の方」へ行ってみるしかなかった。
長靴のおじさんは言った。
「それは遠いねえ。ここから歩いて1時間以上かかるところだ」
我孫子駅からおじさんの家まで歩いて30分以上かかった。そこからさらに1時間以上かかると言う。
家から我孫子へ行くには、自宅近くの野方駅から高田馬場で山手線に乗り換えて、さらに日暮里で常磐線に乗り換えて行かなければならない。これだけで2時間近くかかる。さらに往復に徒歩3時間近くかかるとすると、午後3時までに切り上げないと夜までに帰れない。
常磐線始発は上野発取手行き鈍行列車である。鈍行とは言うものの「列車」なので、普通車とは違い、各駅に停車するわけではなく、日暮里を出ると、松戸、柏、我孫子にしか停車しない。ドアは手で開けて乗る古い車両だった。ともあれこれを利用すれば、朝7時前に我孫子に着ける。そこから約2時間我慢して歩けば目的地に9時前に到着できる。すぐに「漁」を開始するとすると、午後3時までに約6時間活動することができる。
ただ、魚を獲るセルビン、釣り道具、それから採れた魚を入れる予定のバケツを含め道具が多い。一人では無理だった。しかしそんな遠いところへ子どもたちだけで行かせることを許す家はうちしかなかった。
そこで登場するのが、ハシである。「ハシ」こと橋本くんは、親が仕事で忙しくて子に構わないうちなので、私同様どこへでも行けた。何度か善福寺公園にも一緒に出かけた。ハシに尋ねると、思惑通り、
「いいねえそれ、面白そうじゃん」と言い放った。
そこで、これから数回にわたるタナゴ漁の第1回が決行されることになった。

午前4時30分。ハシは約束通りに野方駅にやってきた。
西武線始発に乗り、高田馬場を経て日暮里で常磐線上野発取手行き下り始発列車に乗り込んだ。
ハシは、タナゴが獲れるかもしれないと言う以外になにも知らない。

「トリデってどこ?」
「オレも知らない。随分先だな」
「どこで降りるのか?」
「我孫子だよ」
「それってどこ?」
「千葉県だよ。1時間くらいかな」

降り立った我孫子駅は、ひなびた平屋木造の恐ろしく田舎の駅だった。
目につくものは、赤いポストとカカシのようなバス停。
これは極めて本数が少なく、おまけに知らない地名ばかり。
やはり歩いて行くことにする。
通行人に聞く。
「手賀沼はどっち?」
手で示される。
30分ほど歩くと手賀沼に出た。

「ワーッ、すげえでかいじゃん。すぐ始めよう」
「待て待て。オレたちの目的地は、この沼の端をずっと行ったところだ」

これからが大変。ハシは手賀沼を見てすっかり盛り上がっていて、今にも魚を獲ろうとウズウズしている。

「まだかよ〜?」
「まだずっとあっち」
「まあもう少し」
「いい加減にしろよう。どうせ水で繋がってるんだろ。どこでも同じじゃん」

ついに、気が短いハシは言った。
「もう少しどころかだいぶ歩いたぜ。オレたちは魚を獲りにきたのに、その魚がいそうな池を前にして歩いてばかりってのはないじゃん。ちょっとここらでおっ始めてみようぜ」
仕方がないので、用水路の排出口の近くの深瀬にセルビンを仕掛けして落とした。
その間に釣りをすることになったが、全く何も当たりがない。
しばらくしてセルビンを上げるも何も入っていない。さらにさなぎ粉を追加して投下。
魚は全く釣れない。
ついにハシが怒り出した。
「カッパよう、お前がタナゴが獲れるって言ったから来たのに何も獲れやしないじゃんか」
「しょうがないじゃん、タナゴがいるのはもっと先の方らしいぜ」
「いや、そんなことは信じられねえ。同じ池なのに、どうして他のところにはいるって言うのかい」
とか会話しながらセルビンを上げると、
「おい見ろよ!何か入っている」
「オオッー、確かに何か魚が入っているざんす!」
それは今まで見たことがない魚だった、全体に鈍く赤みを差しているがこれまで見たタナゴとは違う。
とりあえず何か獲れたので、そこで何度かセルビンを落とすが、何回かやっても結局その変な「タナゴ」合計10匹くらいしか獲れなかった。
この後、ハシはもうこれ以上歩くのは嫌だと言い出した。
帰りは大変。
また我孫子の駅まで歩くのだが、ハシは、
「そんな見たこともない魚はオレはいらない。だから水の入ったバケツはオマエが持て」と言って、私がどんなに疲れても魚の入ったバケツを持とうとしない。前を手網を振り回して歩いている。こちらはリュックに釣り道具に水の入ったバケツ。
夜7時ごろになってヘトヘトになって家に辿り着いたが、翌る日父親が獲ってきた魚を見て、
「ほう珍しいな、これはミヤコタナゴと言うんじゃよ」と言った。
生き残った3匹の魚は、そのあまりありがたく思えない姿を晒して泳いでいた。
「もっと綺麗なタナゴがいるんだけどなあ。あそこの子たちはアカベンタとか言っていた」
「それはバラタナゴだ。そのオスの姿は確かにとても綺麗だ」
「・・・・・・・・・・」
「バラタナゴ!」、その名とともに沼で見た美しい魚の姿が脳裏にくっきりと浮かび上がった。
もうどうにも止まらなかった。

いや本当にいろいろなことを思い出してしまう。
小5の終わりに塾に入れられた。家から自転車で20分くらい離れたところにある個人塾だった。これは当時の小学生に塾通いにとってはやや遠かったが、「学校の友だちがいないところ」との注文をつけたら、母がここを見つけてきた。
これまで、授業はほとんど聞かず、宿題をきちんとやったこともなく、ただひたすらやりたいことだけをやっている私の将来をさすがの親も心配し出したのだった。毎日カバンを放り投げるとおやつをポケットに放り込んですぐに出かける。暗くなってから帰宅すると、風呂に入って夕食を食べるともうフラフラ。寝癖を直さない髪型から「カッパ」と言うあだ名もついた。これには多分に「わけがわからないことをする子ども」と言うニュアンスが隠されていたと思う。ふざけて遊んでいるだけの子どもーまさにその「ガキ」そのものが私だった。
母が始めさせた習いごとは全て没になった。オルガン、ピアノ、バイオリン、フルート、お絵描き。手先が不器用で忍耐力がないから全然上手くならないし、楽しくない。家に楽器が増えただけだった。やや長めに続いたのは水泳教室とボーイスカウトだけだったが、もちろんこのどちらでも「問題児」だった。
人の言うことをよく聞かない。オモロいと思った瞬間、即座にそれを直線的に実行しようとする。空気なんて全然読めない。読もうとしない。「主体性」の塊。常に内的好奇心がその場に勝つ。友だちは笑うが、指導者はこれを見咎めた。
元軍人のこの塾の先生の体験談は面白かったが、何せずっと座っているのができない。しかも正座である。すぐに数名の「問題児」扱いを受ける一人となった。
小6から、いじめの対象になった。新しいクラスでムードが変わり、思いついたことを口にしたり実行したりすると、すぐに先生にチクられて、その結果クラス内で孤立した。学級裁判で「刑」を命じられたりした。これは実に辛い体験だったが、これによって今に至る私の「武器」の対人観察力が著しく伸びた。
塾も学校も嫌だった。我慢する時間が長くて自分のオモロいと思うことを実行に移す時間が足りなかった。
そのストレスを開放するのが、一人でもやれる釣りと熱帯魚屋だった。

小学校を卒業して地元の公立中学校に進んだ。そこは他の2校の小学校からの生徒が合流する中学校で、そこでどう言うわけか、ちょっとした「努力」もあって、他の学校から来た生徒たちの人気者になった。その中にヤマギシ君がいた。私はヤマギシ君ほど親しみを覚えた友だちはかつていなかった。彼は私の冗談をよく理解し、判断も優れていた。

ちょうどその頃のことである。ある時いつも通りに暇つぶしにマンボウに顔を出すと、店主の山本さんが、いつもと違い何かを考えながらつぶやくように話しかけた。
「キミ、タナゴって知ってるか?」
「ああ家で飼っているよ」
「エッ!ホントか?」
「ホントだよ。3匹だけね」
「それどうしたの?」
「自分で獲ってきた」
「どこで?」
「手賀沼さ」
「手賀沼かあ、遠いいねえ」
「常磐線で行くんだよ」
「家族で?」
「友達とだよ。なんでそんなこと聞くの?」
「実は最近タナゴが欲しいと言うお客が増えていて、どこかに入手先がないかと困っておるんだ」
子どもだが、ヘンな子ゆえ、すぐにわかった。
店にタナゴを置けば、お客がやってくるようになる。そうすれば店は儲かる。
そういえば、ここのところお客の数が少なかった。店主は水槽に囲まれて暇そうに座っていることが多かった。
実は、当時タナゴは捕獲するもので養殖するものではなかった。
タナゴの養殖には、タナゴが卵を産みつけるカラスガイなどの貝が必要で、その頃はまだ難しいことだった。おそらく熱帯魚養殖達人のこの人でもまだできないことだったろう。
「そのタナゴ、何タナゴ?」
「親父は、ミヤコタナゴって言ってたよ」
「ミヤコタナゴ!」
「そうさ、薄紅がかったやつね。それよりバラタナゴの方がもっと綺麗だぜ」
山本さんの顔色がまるでベニタナゴのように変わった。
「あのねキミ、私から急にとんでもないお願いがあるんだが、もし今度タナゴを獲ったら、うちへ持ってきてよ。1匹5円で買い取るから」
1匹5円!と言うことは10匹で50円、100匹で500円、1000匹で5千円!
物価が10分の1以下であった当時、1000円は今の1万円を意味した。
「エッ、本当?」
「本当だよ、約束する。タナゴ1匹5円で買い取るよ」
ヤマギシ君にこの話を持ちかけると、すぐに彼も乗ることになった。

「ヴォランティア」なのか、都合「バイト」の喜びの覚え始めなのか、私は、受けるものと授けるものとの両方の幸福の瞬間を体験した。
午前6時前。我孫子駅を降りると、向こうにバスが一台止まっているのが見える。
表示を見ると、「柏駅」とある。
「ヤマギシ来い!」と言って走って行って、車掌に聞いた。
「このバスは手賀沼に行きますか?」
「柏駅行きですが、三つ目が手賀沼公園です」
「おーいヤマギシ、これに乗るぞー!」
「漁」のため少しでも時間を稼ぎたい。歩けば沼まで30分かかる。バスなら5分。荷物もあるし、ここはこれに乗らない手はない。
ラッキーである。田舎のバスは区間距離が広いが、あっという間に手賀沼湖畔に出た。ここを「橋」を目指して歩き始めると、30分ほどで大きな橋が見えてきた。
次男ヤマギシは長男ハシのように文句を言わない。平気で歩き続ける。
その大きな橋のたもとで、そこにいた自転車の見るからに現地の小学生に、「この辺りにタナゴっている?」と聞くと、
「タナゴはここにはあまりいない。もっと向こうのスイドーキョーの方にたくさんいるよ」と言う。
「そのスイドーキョーのところに橋はあるか?」
「ああ、こんなに大きな橋じゃあないけれどもね。水門のある橋だよ」
橋がある。しかもずっと向こう。これは間違いのない「情報」だ。
「そこまでどれくらいかかる?」
「そうさなあ、歩いてだと、30分以上かかるよ。暇だからそこまで一緒に行ってやるよ」
「本当かよ、ありがとう!」
ラッキーである。地元の案内人を味方にした。ついにタナゴがいるところに着ける。ワクワクする。「案内人」は小さい自転車の前カゴにセルビンの入ったバケツを入れることを許してくれた。
小学校5年生くらいか、真っ黒に日焼けして丸刈り坊主頭。目がクリクリと輝いて、一目でこれはオモロいこと追求症候群の同志だとわかって打ち解けた。彼はセルビンに強い興味を示していろいろ質問してきた。
さて、それなりに自己紹介しながら、歩くうちについに「橋」らしきものが見えてきた。
「あれだよ」
そこは手賀沼の一番東にあたるところで、そこから川になっているのであった。
「この辺りだよ、タナゴがいるのは」
すぐにバケツの中からセルビンを取り出してさなぎ粉を入れて投入。ついでに竿を繋いで仕掛けをつけて、ミミズをつけて投げ込む。
30分ほどして、セルビンを上げると、なんと、そこには数えきれないほどのタナゴがパンパンに詰まっていた。こんな経験は初めてだった。
ヤマギシも驚いていた。しかし、もっと驚いたのは、セルビンを初めて見た丸刈りくんだった。
「た、大量じゃん!」
中は魚がうねって泳ぎすごい数である。見たことがない。軽く50匹以上入っていた。
しかもタナゴは全てバラタナゴだった。ひしひしと湧き起こる喜びと興奮の中、子ども心にしめしめと言う感情を抑えきれず、これを水を入れたバケツに移し、再度投入した。
何回やってもほぼ満杯状態。しかし、20分以上置くことが大切と知った。
途中でサナギ粉が足りなくなるのを恐れて、これをケチったが結果は同じ大漁だった。
もう完全に大量の獲物群を前にした「漁師」。
次々に魚をバケツにあけては、セルビンを投入してこれを水没させる。しまいには、セルビンを遠くに投げるのではなくて、水を入れたそれを潜水艦よろしく手で押して発進させるので充分なこともわかった。
この間、夢中になって作業していると、竿に付けた鈴が鳴った。見ると竿先は大きくしなり、ぐいぐい引かれている。
慌てて竿に飛びつくが、かつてないような強烈な引きがそこにあった。
竿は放物線状にしなる。糸が持つかどうか心配なほどである。
コイか?フナじゃこんなに引かない。だいいち手繰り寄せられるかどうかもわからない。
ヤマギシも丸刈りも手に汗を握って近くで見つめる。
が、ここは釣り堀で培った技。でかい魚は無理をしないで疲れさすに限る。
案の定、しばらく格闘していると、引きが弱まった。
するりと陸の方に引き寄せると、バシャンと見たこともない大きな魚が翻った。
するとその時、丸刈りがビーサンのまま水に飛び込んで、手で魚を掴むと、それをホーイと陸に投げ上げた。
ジタバタするその魚を見ると、体長40センチ近くある見たこともない恐ろしい姿。
白地にまだらの黒鱗模様。体表はぬるぬるしてナマズのようだがヒゲはない。
見たこともない、気持ち悪いとしか言いようがない魚。
「なんだこれは!?」
すぐに丸刈りくんが答えた。
「ライギョだよ」
「ラ、ライギョ!」
図鑑でしか見たことがない魚だった。
丸刈りが糸を手に取って口を開けさせると、そこには恐ろしいとしか言いようがない「牙」が並んでいた。
口を押さえた丸刈が、「これは完全に飲み込んじまっているな。なんか細長い木の棒はないかい?」と言うと、
「これでどうだ?」とヤマギシが、近くの小枝を差し出す。
丸刈がそれで歯の並んだ口の中を突っつくと、プリッと出てきたのは、なんと小鮒である。
小鮒の口のところにはまだミミズの破片をつけた針が残る。
丸刈が、
「珍しいね。最初かかったフナを、ライギョが飲み込んじゃったんだね」
「いや〜それにしても気持ち悪いね。この魚どうする?」
「捨てるならオレにくれ。試験場に持って行けば20円もらえる」
「20円!なんで?」
「ライギョはガイギョだからだよ。この沼に増えてほしくない魚なんだ」
「いいよ。好きなようにしてくれ。これバケツに入れるの?」
「大丈夫、ライギョは陸でも呼吸できるんだ。ちょっと待ってね」と言って、そこらから新聞紙かなんかの紙切れを拾ってきて、それを千切って水に浸し、そのなんともいやらしい黒い目を覆った。
「これでライギョはもう動かないよ」
ライギョは20円。しかも「試験場」が買い取る。それに、目を覆うと動かなくなる。
その時はまだ、ライギョが手賀沼漁協の「敵」だとは知らなかった。
何もかも信じられないような初めての経験だった。

魚が獲れることをその「経験」が上回る。
それは自分でも認識できないことで、大人にも伝えようがないことだった。
このあと我々には、「ラッキー」なことが引き続いた。
いや、その「ラッキー」は、その前に「苦難」があるがゆえの「ラッキー」に相違なかった。
我々3人は、およそ3時間で、ライギョ1匹以外に、これまでの計算上、およそ500匹のタナゴを収穫した。
しかしバケツの中を覗くと、水面をパクパクするものが多く、これは酸素不足のためであると知れた。
慌てて水を出して加えると魚はパクパクしなかった。
底の方を手でしゃくると、すでに死んでいるものも相当数いた。
さて困った。
タナゴを獲ったはいいが、これをどうやって生かしたままで東京自宅まで運ぶのか。
とりあえずバケツいっぱいに水を入れたが、これはとても持って運べるものではない。
そこで、水を半分にするしかないことになったが、それだと魚がプカプカするのが早くなる。
ともあれ、これを我孫子駅まで運んで歩くのは至難の業に思われた。
どうするのか?
魚が死んでもいいのか?
我々の「使命」は、生きたタナゴを持ち帰ることである。
これは愚かにもあらかじめ予想しなかった難題だった。
「もう充分」だと、「漁」を終了して、すぐに荷物を片付け始めると、丸刈くんが聞いた。
「これを持って帰ってどうするの?」
まさか、熱帯魚屋に売るとは言えないから、
「自分のうちで飼う」と嘘をついた。
すでに我々が東京の中野というところから来ていることは伝えてある。
「じゃあ、我孫子で汽車に乗るんだね」
「そうだよ」
「じゃあ、この坂道を登ったところに自動車屋さんがあるから、その前のバス停から我孫子行きのバスに乗れば」
なんということだろう。ということは、ここまで手賀沼湖畔を歩かずに、近くまでバスで来れたことになる。
丸刈くんの言った通りかどうかはわからないが、バケツの重さからして、またこれから先の困難を予想して、とりあえずこれに従わない手はないと思われた。
ともあれ、ここで「丸刈くん」とお別れすることになった。彼の自転車の前カゴには新聞紙に包んだライギョが入っている。
「今日はありがとう。おかげで大漁になったよ。感謝するよ」と言うと、彼は、恐る恐る丁重な態度で言った。
「あのさーだったらさー、一つお願いがあるんだけれども・・」
「なんだそのお願いって?」
「あのそのキミが肩に掛けているやつボクにくれない?そんなのここには売ってないんだよ」
肩に掛けているやつとは、空のバケツの居場所を奪われたセルビンである。
ここでどうも、この人の好い現地の少年に、自分たちは今日の「仕事」がお金を得ることが目的であったことを隠し続けていたことがやや心苦しくなって、
「いいとも。でも石を入れすぎて投げると割れちゃうから気をつけて」と気前よく言うと、まるで「やったー!」とでも言うが如くに、
「本当!ありがとう!」と、陽に焼けた顔に満面の笑顔を浮かべて言ってきた。
私は、このあと毎日、丸刈りくんがタナゴを何千匹も獲り続ける姿を想像して、羨ましさに悶絶しそうになった。
お互いの「夢」がいっぱいになった気がした。
「商売」を忘れた。
この時我々は、自然にどちらともなく手を差し出して握手していた。もちろんヤマギシも握手した。
どうやら我々は子どもながら、最高の体験を共有したらしい。
真に得たものは、「魚」ではなく、このお互いの充実感と一回こっきりの「友情」だった。

さて、ヤマギシとバケツを「二人三手」で持ってしばらく歩くと、これで坂道を登り続けることは到底無理だと言う「判断」になって、仕方なく途中で半分水をこぼした。「上の道」に上がって、自動車修理工場の前のバス停で待つと、工場の中では、鉄の山の中で何やら火花を飛ばして作業するのが見えた。溶接作業をしているらしい。これも初めて見る光景だった。
バスが来て、あっという間に駅に着いたが、時刻表を見ると、列車はなく、各駅普通電車しかないことがわかった。しかもなぜかそれは日暮里行きではなくて北千住行きだった。駅員に聞くと、日暮里に出るには北千住で乗り換えが必要とのことだった。
しかし、これからが我々の試練だった。すでに魚は酸素不足でバケツ表面に数多くの口を浮かべてプカプカしている。これが続けば早晩徐々に死んでいくことになる。
そんなことが許されようか。ここまで苦労して「大漁」して、それが全て「オジャン」なんて、そんなことがあって良いものか、神様それは間違っていますと念じた。
100匹以上の心細い口が水面でプカプカしている。酸素が足りなくて苦しいのだ。その断末魔絶望的状態。空気中でも生存可能なライギョのことを思い出すが、クチボソ同様の「タナゴ」ではどうしようもない。
ヤマギシも珍しく心配する。
「これヤバくない?大丈夫?」
「ヤバいと思う。だから、手で水面に泡を起こして酸素を供給してみよう」
「そんなことできるのか?」
「やったことはない。でも今はそれしか思いつくことがない」
てなわけで、手の指に隙間を作って、それで水面を擦って泡を立てる。
しばらくやっていると、水面に来ると手がぶつかるからか、魚が浮いてこなくなった。
それにしてもこれは疲れる。普段やらない手の動かし方だからから思いの外にすぐ疲れる。天皇陛下じゃあるまいし、ずっと手を振り続けることの「疲れ」に慣れてない公立中学生なのである。
断続的にやっても疲れるので、左手にしてやったりする。しかもよく泡を立てるには、小刻みに素早く動かす必要がある。手ばかりか肩のあたりもおかしくなってくる。
これをヤマギシと交代交代でやった。
ヤマギシは協力的である.
車内の人はみんな、ジャブジャブやってるコチラを見ている。
まさか、これから売り物にするタナゴに酸素を送るためやっているとは思えないから、何をしているのかとジロジロ見続ける。
手をかきながらヤマギシが言う。
「これ、だんだん温くなってきていると思う。オレたちの手のせいだな」
「そんなこと言ってもやめるわけにはいかないよ。実際魚は手を離してもプカプカしなくなったじゃんか」
二人の子どもが、いや中学生が、魚の入ったバケツを懸命に引っ掻き回している。
いったいなんでそんなことをしているんだろうか。
ついにその真相は乗客には謎であったに違いない。
ともあれ我々は、この調子で北千住で乗り換え、日暮里、高田馬場、野方駅を経て、無事暗くなる前に家に着いた。
即座に荷物をそこに置き、タナゴの入ったバケツを自転車の前カゴに乗せて、マンボウに向かった。
あらかじめ言ってあったが、山本さんは、夥しい数のタナゴを目の前にしてやや驚いた。そしてちょっと目を光らせて、大人の顔でこう言った。
「ご苦労さん。今日は死んでいるのもあるし数が数えられないから、明日生きているのを数えてお金を払うね」
ここでヤマギシと握手して別れた。
見送っていると、ヤマギシが立ち止まって振り返り、こちらを向くと、舌を出して、癖になった両手をまるで幽霊の骸骨のように前に持ち上げてヒラヒラした。
確かに手がやけに疲れている。こちらも両手をヒラヒラさせて応じた。

明くる日の月曜日、学校が終わるとすぐマンボウに飛んでいった。ヤマギシも駆けつけた。
熱帯魚屋の店主は言った。
「キミたちが獲ってきたのは452匹。そのうち今朝まで生きていたのが186匹だった。つまり266匹が死んでいた」と言って、発泡スチロールの上の新聞紙に並べたタナゴの死骸を見せた。見ると、だいたい小さい順から大きい順に綺麗に並べられ、まるでミニ魚屋のようだった。
「1匹5円で186匹だから、930円ということになるが、1000円におまけしておこう」
「えっ、死んじゃったのはダメなの?」
「そうだよ、うちは魚屋ではない。生きている魚しか買わないよ」
これにはややがっかりだった。
少なく見積もっても400匹、つまり2000円と踏んでいたのだ。
交通費は親からもらっていた。しかも小学生料金で浮かせた。
それでもヤマギシと私は、500円ずつ山分けして嬉しい気分になった。今なら5000円くらいの値打ちだった。
彼は、これに有り金を足して、大きくなった足用にサッカーシューズを買うという。
私は、これでは水槽資金の4分の1にもならなかった。
さらにこの明くる日、マンボウに行くと、驚いた。
この店は外を歩く人の目に止まるように入り口脇に海水魚用の深くてでかい水槽を置いているのだが、今日そこに入っていたのは、紛れもなく自分がとってきたタナゴの群れだった。大型水槽にたくさんのタナゴ。思わずうっとりしてこれを見た。
しかし、その水槽の左上には、よく熱帯魚屋が使う白いマーカーで、

タナゴ(この字はやや大きい)
小 50円
中 70円
大 100円

と書いてあり、おまけに右上には、

ミヤコタナゴ 1匹 300円

と書かれていた。

中へ入ると店主がにこやかに応じた。
「タナゴよく売れるね。キミたちのおかげだ」
「でもこれちょっと高すぎない?オレたちから買ったのは5円で、売ってるタナゴは最低でもその10倍、ミヤコタナゴなんて60倍だよ」
「いいんだよ。これでもお客が喜んで買うんだから」
「それでもちょっと高くない?」
すると山本さんは急に真面目な顔になって、
「一度買ったものはその人が値をつけて売るのは自由というのは当たり前のことじゃあないか。それにおじさんは餌代を出している。餌代はバカにならない。キミたちはただ獲ってきただけ。おじさんは餌をやらなければならない。ホレ」と言って、濡れ新聞紙を広げて、そこから大きなイトミミズの塊を取り出すと、それを水槽内にボチャンと落とした。
魚は一斉にその塊を突っつき出した。たちまち塊が飛び散る。それを追い回す魚が激しく動き回る。
もう水槽内は魚の乱舞。目でじっと魚を追うことなんてできない。ガツガツしているところが犬より凄い。まさに生き物そのもの。
思い浮かぶのは、この人が、タナゴの死骸を小さい順に綺麗に並べていたこと。なぜか憎めない気にさせた。この人は嘘はつかない。約束を守った。確かに熱帯魚屋が死んだ魚を買うはずがない。
それゆえ、問題は何か?
それは、魚をできるだけ死なさずに持ち帰ることに尽きる。
450匹持ち帰ることに成功すれば、一人1000円以上になる。
それにはどうするか。手で混ぜるのでは限界がある。
何かよい方法はないか?

10

魚を生かして帰ってくるには、水替えができれば良い。幸い当時どの駅のホームにも水撒き用の水道があった。
問題はこれが水道でカルキが入っているから、それではタナゴが死んでしまうことだった。
バケツを二つ持って行って、片方に水を入れてハイポで中和し、もう一つのバケツのタナゴを移す。
ついでにもう一つのバケツにも水を入れてハイポを入れる。
次の電車に乗って、しばらくしてタナゴがプカプカし始めたら、もう一つのバケツに移す。
そしてまたどこかの途中駅で下車して同じことを繰り返す。
こんなことも考えてみたが、めんどくさい上に時間がかかるのでできれば避けたかった。ともあれ最終手段はそれで、途中で水替えのために降りる駅など調べたりした。
熱帯魚屋のタナゴはみるみる数が少なくなった。
ミヤコタナゴはすぐに全ていなくなり、残ったバラタナゴも見るからに数を少なくして、小さいのがパラパラ泳ぐだけになった。
いつものようにふらりと熱帯魚屋に寄ると、店主の山本さんがいつも以上ににこやかに話しかけてきた。
「なあ、今度タナゴ獲りにいつ行くの?」
これに対して実はすでに行く日が決まっていたのに、「まだ決まっていない」と本当のことを言わなかった。
実はそこにはやや複雑な「事情」が起こっていた。

というのは、次にこのタナゴ獲りに登場するのがオグラくんである。
2年のクラスで一緒になったオグラくんは、筋肉隆々のバレー部のアタッカーだった。またエロ話が得意で、私がそれに加えて冗談を言うと、それを他の人に繰り返しやったりした。彼は夏の林間学校で、部屋中の男子生徒が見つめる中、懐中電灯を使ってオナニーのやり方を教えているところを、英語教師に見つかって、「何をやっとるんだオマエは!」と言われて、耳を掴まれて2段ベッドから引きずり下ろされて、下着姿のまま引っ張って行かれたが、教師の顔には微妙な笑みがあった。
同じ小学校出身のヤマギシからタナゴ獲りで儲かった話を聞いて、オグラは話しかけてきた。
「なあカッパ、今度はオレも加えろよ、そのタナゴ獲りに」
3人では分前が少なくなる。でもこのオグラは体格が大きく、なぜか断りにくいねちっこいところがあった。でもこの男と一緒なら車中エロ話で盛り上がって飽きないとも思われた。
話が決まると、このオグラは抜け目のないやつで、マンボウ熱帯魚屋が欲しがっているなら、他の熱帯魚屋も欲しがるはずと、予めわざわざ行ったこともない野方の熱帯魚屋へ行って、巧みに金銭交渉し、タナゴ1匹7円で話をつけてきた。
「タナゴほしいと言うから、1匹10円て言ったら、う〜んと言うので7円になったザンス」とのことだった。
これなら野方駅から歩いて行かれる。しかも1匹あたり2円アップだ。次からはここに売ろうと言うことになっていたのである。
ところがマンボウのおじさんはこう言ってきた。
「もしもう一度タナゴを獲ってきたら、お礼にこの60センチ水槽をキミにあげる。これまで使ってきたが、水漏れはない。もちろんタナゴもこれまで通りに買い取る」
よほどタナゴがほしいと見える。それもそのはず、タナゴなら、ヒーターも空気ポンプもいらない。水槽があるだけで簡単に飼える。熱帯魚客じゃないお客もこれを飼える。でもそのタナゴは東京の池にはいなくなった。
ともあれ、ついに夢にまでみた60センチ水槽が手に入るかもしれない。それは嬉しいこととしか言いようがないことだった。そしてその次は、エンゼルフィッシュの番だ。そしてさらにそのあとは、その繁殖に大成功して見事「御大臣」というわけだった。
しかしオグラはすでに野方の熱帯魚屋と7円で話をつけている。
どうしようか?
これは、両方に半分ずつ下ろすと言うことで話は決まった。
オグラも反対しなかった。
でも、問題は魚を生かして持ち帰ることだった。
「でも死んじゃうのが多すぎるからなあ」
これに対して、マンボウの店主は、意外なことを言った。

11

マンボウの店主は言った。
「魚が死ぬのは酸欠のためだ。だから、ここにあるような酸素を入れれば良い。酸素は車の修理屋など溶接をするところにあるが、そんなのは大抵どこにでもある」
これには、アタマの中に火花が散った。イメージ記憶が蘇った。
水道橋の上の道のバス停の前は車の修理屋で、そこの入り口には確かに大きなボンベがあった。
そのことを伝えると、
「ホレ、このビニール袋をやるから、これにそこで頼んで酸素を入れて貰えば良い。そうすれば水は少しでも大丈夫だ。ほとんど死なずに持ち帰れる」
ううむ、そんな「手」があったか。しかし、修理屋にどうやって頼めば良いのか。
それができない最悪の場合は、手で「じゃぶじゃぶ」か、駅での水換えである。
しかし、なぜかやや考えて、「じゃあおじさん、破れた時のためにビニール袋もう一つくれない?」と言っていた。
「いいよ、もちろんいいよ。お安い御用だ」と言って、サラのビニール袋をもう一枚追加した。ついでに強い輪ゴムもつけてくれた。

オグラは野方駅に白い野球帽を被り、手に網とバカでっかいバケツを持って足に長靴を履いて、子供っぽ「いいでたち」で現れたが、これは実に似合わなかった。彼は駅まで自転車で来て、それを銀行脇に停めることを推奨した。
ヤマギシは、本人ものすごく残念がったが、どうしてもサッカー部の試合で来れなかった。彼は2年なのに「レギュラー」なのである。
さて、遠出の第一関門は電車に小学生料金で乗ることである。「遠出」であるがゆえになおさら、これは金額的に重要だった。
当時は券売機などの機械は一切なく、駅の窓口で行き先を言い、乗車券と引き換えにお金を払う仕組みだった。
前にも記した通り、オグラは筋肉隆々で顔も憎たらしく、どう見ても小学生というよりも「大人」だった。対して私はまだ背がそんなに高くないし、子どもっぽい顔だったから怪しまれないと言うことで、私が窓口で、「我孫子 小人 2枚」と言うと、ガラスの向こうの駅員が、ジロリとオグラを見てすかさず、「キミたち小学生?」と返してきた。実は当時私はまだ訓練の足りない「アマちゃん」で、ウソをつくことに抵抗があり、普段はもとよりこう言う時にとっさにウソをつくことができなかった。でもかろうじて「そうです・・・」と答えると、相手は付け込んで、「何小学校?」と聞いてくるので思わず私が怯みそうになると、すかさずオグラが前にしゃしゃり出で、「野方小学校です」とキッパリとした口調で答えた。すると、駅員は明らかに疑いながら、今度は「担任の先生の名は?」と聞いてきた。これもオグラが「宮崎先生です!」と即答し、仕方なく駅員は小2枚の切符を出してきた。
実は「宮崎」というのは、先日教室でオグラが「オイ、カッパ、オマエがこの学校で一番可愛いと思っている子は誰やねん」と根掘り葉掘りしつこく聞くのでつい口にした女の子の名前だった。私はオグラの機転と勇気に驚かされたが、本人は、「なあに、小学生に学生証なんてあるかよ」と軽くほざいた。

12

午前7時。我々は目的の「漁場」に着いた。我孫子からは、回を重ねるたびにどんどん「学習」」し、今回は湖北駅行きのバスを待ち、それに乗って修理屋の前のバス停で降りた。
オグラは思った以上にねちっこかった。彼は完全に金目当てのバイトのつもりで来ていることもわかった。でもこれは私と同じ。いったい結局いくらくらいになるのか?としつこく聞くので、
「うまくいけば2000円ずつ。目標は800匹」と答えると、「うひゃ〜おちんこおっ立ちました〜」とか平気で下品なセリフを言う。
オグラは、バケツの他に自らセルビンも用意していた。
早速我々は、さなぎ粉を入れて「潜水艦」方式で沖の方へセルビンをシュワーッと送り入れた。
待つこと15分くらいか、例によって、オグラのエロ話の後―これは実際年上の女の子との体験談だったりしたので大変興味深かかったがーとりあえずセルビンを上げてみると、「大漁」である。
すぐにこれを、もはや手慣れた感じで、ザーッと水を入れたバケツに移して、またさなぎ粉を詰めてセルビンを発射する。そしてオグラのエロ話。
この「作業」の繰り返し。
いや、我々はタナゴ漁に夢中だった。エロ話をしている暇はなくなった。
なにしろオグラと交互に上げるセルビンは「大漁」の連続である。
笑いが止まらない。
11時までに、二つのバケツいっぱいになって、早くもタナゴが小さい口でプカプカし始めたので、
「もう充分だ。これ以上獲っても全部持ち帰れない。やっても意味がない。道は長いから長いは無用だ。もう昼飯を喰って帰ろう」
と、経験上先の苦労を知ってる立場から物申すと、オグラは、用意した銀紙の握り飯を頬張りながら、
「もうかよ、いったい何匹くらい獲ったのかな?」と言う。
「この前の経験からするとその倍近くあるから、800匹以上いると思うよ」
「シェー!もうそんなに獲ったざんすか!それなら一人2000円ずつ!だったらミーももう充分ざんす」
「ところが、ことはそう簡単ではないざんす。これをできるだけ多く生かして持ち帰ることが一大事なのざんす」
この「ざんす」は、ここでわざわざことわる意味はないと思うが、当時流行の赤塚不二夫の『おそ松くん』の登場人物「イヤミ」の喋り方だった。
しかし、この言葉に、オグラは、ことが容易くないことを改めて悟った。
実はここからこそが本当の「仕事」なのである。
荷物をまとめる。今回は邪魔になる釣り道具は家に置いてきたので、背中のリュックにセルビンを入れて、片手に杖代わりに網を、片手に水の入ったバケツを持って歩くことになる。
とりあえず「最終酸素補給」。
まずこれを小さいバケツに全部移して(おお!なんたる数のタナゴぞ。佃煮にしても良いくらいだ)、もう一つの大きい方のバケツに新しい水を汲んで、そこへ魚を移し、もう一度小さいバケツに新しい水を半分くらい入れて、そこへ大きいバケツに残る魚の約半分を入れて、大きいバケツの水を半分以上こぼした。
すでに死んでいる魚は皆捨てた。
大きい方のバケツは、「まかしてちょ」とオグラが持ってくれた。
二人とも大漁に気が良くなっていたが、その先の道のりは険しい。
「油断」はできない。「最悪」の場合もある。頼みのバス停前の修理屋は朝7時前にはシャッターを下ろしていた。
坂を上がって車道に出ると、修理屋のシャッターは開いていた。
思わず「ラッキー!」と心に叫んだ。しかしここからが「仕事」である。
見ると、やはり入り口に大きなボンベがあり、それに赤字で「酸素」と書いてある。
しかし、店の奥では、火花の音がして仕事中である。
オグラが「ミーがやろうか」と言うのを制して、「いいやオレがやる」と言って、まずは小さい方のバケツからビニール袋にタナゴを移して、火花の音が一段落したとき、やや一呼吸おいて、広くて天井が高い作業場に向けて、
「すいませ〜ん」と子どもの声で叫んだ。
すると、ゴソゴソ音がして、真っ赤に日焼けして汗まみれ油まみれのランニング姿の男が現れた。
「なんだ?」
「あの〜、一つお願いがあるんですが・・・」とこれ以上謙虚ではない子どもはいないというふうに装って言うと、
「なんだ、そのお願いってーのは」
そこで、袋に入ったタナゴを見せた。
「あの〜、もしよかったらこれに酸素を入れてくださいませんか。もちろんお金も払いますから」
「なんだそんなことか、オッ、これはタナゴだねえ。オレも小さい頃はよく獲ったもんだ」とか言って袋を受け取ると、店先のではなく奥のボンベに行ってシューっと入れてきた。
「あいよ」
すかさずオグラから受け取ったもう一つの袋を差し出して、「すいませんが、こいつのもお願いします」と言うと、もう一度「あいよ」と言ってこれにも入れてくれた。あっという間のことだった。オグラと私は、急いで予め用意した輪ゴムで、風船のように膨らんだビニール袋をきっちり縛った。
「ありがとうございます。助かりました。で、お代は?」と言うと、
「わはっは。これくらいいいってことよ。今日は明日渡さなければならない仕事があるので、日曜なのに店を開けていたんだからキミたちはラッキーだったね」と言って、手をハラハラ振って奥へ入り、すぐにまた火花仕事の続きに取り掛かった。
オグラが握手してきた。
「やったぜ!ラッキーだぜ」
と、ちょうどその時の店の前のバス停に、湖北駅行きのバスが来て止まった、ドアを開けた車掌が「湖北駅行きです」と言うので、
「すいませーん!湖北駅からは電車で我孫子に行けますか?」と尋ねると、
「ハイ行けます」とのことなのでこのバスに乗り込んだ。
着いてわかったが、湖北駅は常磐線の駅ではなかった。
でも結果選択的に「ラッキー」だった。
これは成田と我孫子を結ぶ線で、見たこともないボロい電車で我孫子まで二駅だった。
各々バケツの中の袋に入ったタナゴを持ち上げて見る。水よりタナゴの方が多いくらいだが、タナゴは酸素を得て全部元気そうだった。
我孫子で常磐線上り普通電車に乗り換え、北千住、日暮里、高田馬場を経て野方駅に着いたのは、予定よりだいぶ早い午後3時過ぎだった。
無事改札口を出たところで、各々バケツと網を持っていない方の手で再度厚く握手をした。
まだ早いが、ともかく一つの仕事を協力して遂行したという、かつて経験にない、なんとも言えない手応えと満足感だった。
ここからオグラは自転車で野方の熱帯魚屋へ、私は別に同じく自転車でマンボウに向かうことになった。
精算は明日だが期待に大きく胸が膨らんだ。
もうこれ以上は詳しく書くまい。我々は翌る日、野方の熱帯魚屋から3000円、マンボウからは1000円受け取って2000円ずつ分けた。
死んだ魚はそれなりに出たがごく少数で、我々はおよそ700匹以上を生きて持ち帰ることに成功したことになった。
小倉に2000円渡した。これは今でいう20000円である。
オグラは分前を手にして、うっとりとした目つきになった。
「何か買うものが決まっているのかい?」
「そうだ。それは念願のモデルガンだ。かっこいいんだよ、たまらねえよ。カッパは何に使うの?」
「オレか?オレはエンゼルフィッシュだ」
「なんだそれは?」
「熱帯魚だよ」
「お前タナゴじゃなくて、熱帯魚を買うのか?」
「そうだよ」
「前から思っていたが、お前本当にヘンなやつだな」
ついにオグラにはこの件で、私に60センチ水槽が入ったことは告げられなかった。
ともあれ、1970年代の中野の中学生はかくの如しであった。

私はこの件を持ってタナゴ獲りに行かなくなった。それは、以下述べるように「目的」が達成されたからであり、それよりもタナゴ獲りの単純さに飽きたからである。
この、どんなに楽しいことでもすぐ飽きるというのは、今にして思うと自分の終生変わらぬADHD的特性である。
同じことを繰り返せば早晩それに飽きる。それは当然のことだった。
マンボウの親父は言った。
「キミにこのエンゼルフィッシュのつがいを2000円で譲ろう。そうしてそれが成功して稚魚ができればそれを買い取ろう」
すでに水槽を得た私がこれに乗らないわけがない。
私は、ついに念願のエンゼルフィッシュのつがいの主となった。

13

マンボウの店主から譲り受けた60センチ水槽を、2階の自室机脇に、ヒーターと浄化装置とエアーポンプをつけて設置した。
エンゼルフィッシュは、すでに産卵・孵化して「つがい」が確実であるペアを格安の2000円で譲ってもらった。しかも、これの繁殖に成功すれば、これまたお安いながら1匹あたり10円で買い取る「契約」も結んでいた。
子どもながら大金を積んで、ついに手に入れた熱帯魚の水槽と、夢にまで見た大エンゼルフィッシュ。しかもすぐに子を産む「つがい」である。
水槽内をゆっくりと泳ぐエンゼルフィッシュをうっとりと眺める。
縦に3本黒い線の入った平たい菱形の体。よく広がり伸びた背鰭(びれ)と、シュッと剣のように長い2本の腹鰭。尾鰭は普通だが尻鰭は大きい。全体はやや扁平な二等辺三角形を横に二つ並べた姿。小刻みに動く器用そうな胸鰭。2匹は離れることなく水槽内を泳ぎ回る。いつまで見ていても飽きない世界だった。
こんなにも熱帯魚を飼うことが素晴らしいことなんて。
子ども心にこれを行う大人の気持ちがよくわかった。

今思うと書ききれないほどのことが次々にアタマに浮かんできてしまう。それが中学2年の私の姿だった。
私は、小6のいじめの経験から、クラスの人気者になること、おもろい冗談を言うことを学校生活の目標にしていた。
保護者会から帰った母は、「いったいあんた学校で何してんの?」と聞いてきた。
母はその日、スナダくんのお母様から、「息子が、クラスにカッパ、いや松永くんというとても面白い子がいると言っている」と聞き、タケウチさんのお母さんから、「考えられないくらい面白いお子さんだそうですね」、他の親からも「松永くんがいるから学校が楽しい」と感謝されたと言うのである。
そもそも早生まれの私は、それまで早熟な子どもたちの後を追っている間抜けな子どもだったが、13歳を過ぎてテストステロン出まくると、そもそもの本質的気性のオモロさの追求、冗談とふざけの実行を止められなくなったのである。
まず、なぜか知らぬが数学の先生でバレー部と演劇部の顧問の橋本先生に、区の演劇大会出場のチームを編成するにあたり、私のクラスからスナダくんと私の二人が指名されたのである。聞けば演劇部には女子しかいないので、他のクラスからも3人ほど選出されていたが、タシロくんとウチヤマくんの二人はバレー部員で断れず、もう一人はスナダくんと学年1、2位の成績を争うイチキくんだった。つまり、バレー部か成績優秀の男子。なぜかオグラは選ばれなかったが、納得できることだった。
私はこのどちらにも属さず指名を受けたので、スナダに持ちかけて、「男が演劇なんてやるのはダサい」とか言って一緒に断ろうとしたが、スナダはもう意を決していて、複雑不思議な目つきをして、「オレはやるよ」と言う。橋本先生は眼光の鋭い、逆らいにくいタイプの先生だった。後で知ったが、私を推薦したのはスナダだった。
役柄は、主役のスナダが百済から渡ってきた名鍛治職人で、農民のためにタガラスキと言うものの開発をしようとしているが、そこに悪郡司役の私が登場して、「やい!百済のカラ足はどこじゃ。とっとと朝廷にこれまで通り牛馬につけて使うカラスキを作って奉れ!」とか言うセリフを吐くのであり、カラ足たちの言い訳を聞くうちに、「そうか、ではこうじゃ、やれっ!」と指示を出すと、郡司の手下役のイチキとウチヤマがカマドなどの道具を打ち壊すと言う一幕から始まるのであるが、この件について書くと長くなるのでこれまた別の機会に譲るとして、結構しっかり稽古をして本選に臨むと、この劇の最初の部分で、私が大変なヘマをやらしたために、それから先悪郡司が登場するたびに、「出ました!」などのヤジが飛んで会場は大爆笑になってしまい、せっかくの深刻真面目劇はぶち壊しになった。ヤジを飛ばしていたのは明らかにエロ話のオグラだった。私は今も思うが、舞台の上は似合わない。役者になりきることができない。表に出ずに陰で活動するのが相応しい。個人教授はその一つだ。
さらにこれと同時に、学校内でクラス対抗演劇合戦というのが行われていて、我がクラスはアホ男子ヨコヤマがふざけて言った提案が通って、「かぐや姫」をやることになった。しかもさらに私の提案で、ふざけて国語教科書に載っている古文の言葉でやろうということになった。脚本と編集は私と読書家のタケウチさんがやったが、私は喋るだけで、綺麗な字で文章にまとめたのはタケウチさんだった。さて嫌がる「アホ」を無理やり仕返しにかぐや姫役にし、ナレーションは私が引き受けて上演した。ごつくて渋いヨコヤマがまるでお地蔵さんのような容姿でイヤイヤかぐや姫を演ずる姿は、予想に反して他のクラスには全然ウケなかった。そしてこれはどういうわけか、子どもではなく大人に受けた。特にコワイ教頭のナカジマ先生が講評で、「古文でやるという試みはなかなか良かった」と高く評価した。こちらはふざけてやったのにと目をパチクリした。
さらに同時に、タケウチさんに引っ張られてクラスの新聞係に入り、クラス壁新聞をこれまでとは全く違った形にして作った。全ての記事は真面目かふざけなのかわからないムードの文体にし、それを字が綺麗なコクボくんが、字体を統一して模造紙にマジックで書いた。私は喋るだけで何もしない。「じゃあこうすれば」とアイディアを出すだけだった。
この新聞は校内、職員室で有名になり、授業中にこれを読んだ教師が思わず吹き出したりした。授業がない教師も昼休みにわざわざ記事内容を確認しに来ることもあった。この結果、今度はクラス対抗新聞合戦を開催することを教師側が決定した。我々はこれがチョー気に入らなくて反発を覚え、他のクラスが派手にやらかしていたのに、わざわざ目立たない、事実だけの報告記事にしたりした。これ以上学校に踊らされてたまるかという気分だった。
さて、2学期が終わり、通知表を渡されて、そこに並んだ数を見て、我ながら驚いた。そこには、今までオール3で、4と2がちょびちょびだった成績が、ほとんどの科目が2で、3が三つの成績だった。特に英数国とも2がついたのには目に穴が空いた。こんなことはかつてなかった。正真正銘の最低の成績だった。これまで成績のことなどあまり気にしなかったが、ついにオール3からオール2に成り下がったのには、我ながらショックを禁じ得なかった。
「ついに来たか。やっぱりこの子は単なるお調子者のバカだったか」
親は嘆いたことだろう。勉強以外のことはよくやるのに、勉強は全くしない。
両親とも小中学校は成績優等だったという。私学ながら、両者とも大卒だった。
しかしこの成績では都立普通科は受験できない。
今にして思うと本当に一回こっきりのことだが、父親に諭された。
おそらくは母が、「もう自分が言っても何にも聞かない」と父親に泣きついたのだと思う。
玄関脇の歴史書が並ぶ部屋で、父親はこう切り出した。

14

父は何気ない口の利き方で言った。
「お前、まだベーゴマっていうのやっているのか?」
「ああ」
「メンコは?」
「・・・・・・」
「カンケリは?」
「・・・・・」
しばらく沈黙の後、珍しく目を光らせて、まるで会社で部下に質問するような調子でこう聞いた。
「お前なんかヘ ンだと思わないのか?」

13歳を過ぎて14歳目前、早生まれで「奥手」とは言え、すでにテストステロン出まくって、母ばかりか、父に何か言われることにもムカッとした。あとで知るが「反抗期」、もう体の内面から押し出してくるものに抵抗しようがない。
中学2年になって、小学生の時によく遊んだ同級生たちは皆クラブ活動。その空き日に塾へ通う。日曜日はたいてい試合。気がつくと、自分と遊んでいるのは、母子家庭、共稼ぎ家庭で、親が家へ帰るのが遅い、貧しい家の子たちばかりになっていた。おまけにメンコやベーゴマには小学生も参加していた。当時は父親が外で働いて、母親は家で家事をしながら子育てをするのが普通だった。「専業主婦」などと言う言葉はまだなく、共稼ぎの家はたいてい貧しく、アパートなどに住んでいるのが普通だった。
私の住んでいた中野区大和町地域は、中央線高円寺駅と西武新宿線野方駅あるいは都立家政駅の中間にあり、野方方面の北側を妙正寺川が流れていた。小学校や中学校はその川縁建てられることが多く、私の通った中野第四中学校(現明和中学校)は、その敷地の真ん中を妙正寺川が流れていた。
この地域は、新宿・東京方面に出るのに便が良いので、戦前から住宅地になり始めていた。中野駅から新宿へは一駅。四谷、御茶ノ水、神田、東京方面へもすぐにそのまま行けた。その頃は地下鉄はまだ丸の内線と銀座線くらいしかなく、通勤には私鉄か国鉄を使うしかなかった。最初この辺りは畑と空き地が多かった。それが東京オリンピック前後から、次々と新しい家が建つようになって、アパートもたくさん建った。氾濫を繰り返した妙正寺川は、護岸工事が進められて堀のような川になっていった。
同様のことは、のちに宅地開発が進んだ三鷹、国分寺と奥へ奥へ続き、ついには、終点高尾駅の周りにマンションが立ち並ぶ姿に及んだ。
父親が会社勤めの家は、その父親、つまり祖父の代に家を構えた家が多く、まだどの家庭もそんなに裕福なことはなかったが、中学受験をする家庭や上級都立高を目指して塾通いする会社員家庭も多かった。自宅近くのそうした家庭の子どもたちとは啓明小学校で付き合い、中学校からはさらに混然とした体の大和小学校から合流した人たちと付き合うことになった。

その頃私は不思議な認識を持ち始めていた。それは、これまで通りの遊びをしても面白くないことであった。小学生と混じってベーゴマやメンコ。すでに熟練したこちらとしては、勝負にならなくて面白くない。缶蹴りは道路で中学生が集まってやっているのを、そこを通る小学生や学校の先生が、まるで悪いものでも見るかのように通り過ぎた。隣のお婆さんは、背の高くなった少年たちが塀の上をダダダと走ってそこから道路に飛び降りるのを目の前にして腰を抜かしそうになった。恥ずかしいと言うよりオモロウない。なんと言えば良いか。それはつまり「飽きた」と言う認識である。そして、これまでの遊びが今の自分に相応しくないと言う感覚。
タナゴ獲りも、もはや目的の水槽とエンゼルフィッシュのつがいを手に入れた後は、もうあの面倒くさい遠出をする気にはならなかった。おまけに、演劇で一緒になった学年1位のイチキくんの家へ行って、ブラームスの交響曲1番を聴かされて痺れた。その感動はそれまで時たまバッハやベートーベンの音楽を聴いて楽しんだ時のものとは違っていた。そして、そのレコードが欲しくてたまらなくなった。
気がつくと自分の趣味は、熱帯魚飼育と音楽鑑賞に傾いており、メンコやベーゴマやタナゴは、もう遙か過ぎた昔のことのように感じられるようになった。

父親の言葉には、ムッとなったが、「ヘンだ」と言う言葉は妙に刺さった。小学校の時の友達はどれもこれも自分より成績優秀。しかし、今自分と一緒に遊んでいる連中はその逆。しかもそのことに「飽き」を感じている自分がいる。これは幼い頃からの性分で、飽きたと思うともうできないのである。そしてその飽きるスピードはADHD、人より速かった。父親は返答を待たずにこう言った。
「思うに、授業の前日にちょろっと教科書に目を通して、授業中は先生の話をよく聞いてノートをきちんと取り、その上で試験前にそのノートを確認すれば、普通4の成績がつくはずだ。それをお前のやっていることはその真逆だろう。つまり、ただおちゃらけているだけ。通知表にも「もう少し真面目に勉強してほしい」とあるが、その通りなのではないか」
そんな言葉などは聞いてなかった。ただ無性に何かが体の中から湧き起こってきていた。それはそれまでの自分の半分への腹立ちでもあった。また、それまでにほとんどない感情だったが、自分をどうしようもなくカッコ悪いと感じた。しかし、テストステロン反抗期、素直に親の言葉など聞くわけにはいかない。
「そうさ、オレはヘンさ。だから、やりたいようにやらせてもらうぜ」
こんな言葉遣いをするのもこれが初めてだった。
何かが変わっていた。変わってしまっていた。

15

自室に戻って机に座り、散乱した部屋を見回すと、なんとも意味がないものばかりがあるように思われた。ベーゴマの入ったバケツ、メンコの入ったみかん箱、埃を被った下手くそなプラモデル、ついに使わなくなったグローブやボール、読み終わって捨てない漫画雑誌の山。その他子供の頃には宝に思って捨てられずにいたもので溢れていた。机の引き出しも同様のものでいっぱいだった。壁に貼ってあるペナント類も色褪せていた。認識が変わってしまっていた。
唯一輝かしいのは、エンゼルフィッシュの入った水槽だった。その中の世界だけが価値がある目の対象だった。
エンゼルフィッシュは、順調に産卵して、その卵の付いたアマゾンソードの葉をペアが代わりばんこに胸ヒレで水を送っている。愛らしいとしか言いようがない。しばらくうっとりとして眺める。しかし目が醒めた。

「お前はヘンだ」

そうだヘンだ。これまでの自分は、まるでこの部屋の有様同様ヘンだ。
そこで、急に、この部屋にある余計なものを全部片付けようと思った。
ADHDは実行は速い。何しろ思いつくと即行動なので、部屋の片付けを始めた。それもただ片付けるのではなく、引き出しから押し入れからいらないものを全部箱に詰めて部屋の外に出した。
親は驚いた。突然これまでしたことがない「掃除」が始まったのである。
2階から玄関先にどんどん下ろすと、父親がそれを見て、
「この夜に急に何をおっ始めるのだ。本当にお前は変わっている。ヘンだ」と言った。
掃除機もかけて綺麗になった部屋の机に座り、これからどうするのかを考えた。
それはタナゴ捕りの時に危機に直面した時と同じアタマのハタラキだった。今思うと、それは少年によるダイアローグの初歩だった。
「じゃあ、どうするのか?」
これまでの遊びに飽きてしまった。
ではどうするのか?
このダイアローグへの答えは、自分でも予想もしないものだった。
「じゃあこれからは成績を上げることを遊びにすればいい。そうすれば誰にも文句を言われない」
勉強を遊びにする?
そんなことは可能か。
この後メリメリとタケノコが生え現れるような空想の連続になった。

16

私は机の上にスケッチブックから剥がした紙を置いて、そこにクラスで自分より成績が良さそうな者の名前を書いてみた。
それはあっという間に10人以上になった。その中でも特に優秀と思われる生徒名の下に赤線を敷くと、それはどうやら3名と言うことになった。
そこで閃いた。次回のクラス壁新聞の特集は、「各クラス成績優秀者の研究」と言うことにしよう。そうすれば各クラスの優秀者を把握することができる。
次の日学校で、各クラスのトップではないがそれなりにできると思われる知り合いの生徒に、「壁新聞の取材だ」と声をかけて、名前を挙げてもらった。上位以外に2番手層も上げてもらったので、名前は知らなくとも全クラスの優秀者の名前を把握した。そして各クラスのトップに挙げられた生徒の何人かに、勉強法をインタビューしてこれを特集掲載した。
これは大変な評判になり、昼休みには新聞の貼ってある壁の前が黒山だかりになった。
しかし、私の机の上の紙には、約30名の成績上位層のリストが揃った。
さらにその生徒たちが、どのような塾に通っているのか、あるいは塾を利用していないのか、どのクラブに入っているのか、どこに住んでいるのかを調べた。
これらの生徒はすべて上級都立高進学を目指して努力していると言って良かった。
当時は都立高全盛時代で、一時西や日比谷は200人を超す東大合格者を出すこともあった。
このほか東大合格者数ランキングには、新宿、戸山、青山、小石川、上野といった各群上位校が10位以内に並び、私立はまだそんなに強くはなかった。
私の育った第3学区(杉並、中野、練馬区)の成績優秀者は、32群(西・富士)を目指し、それより下位の内申点の足りない層が慶應高や早大学院を目指していた。西高には、それらを蹴ってきている者も多かった。西に進めば、早慶は軽い、それより東大一橋大東工大だ。そう誰もが思っていた。
当時内申点は、5、4、3、2、1の5段階評価で、上から7、5%、22、5%、30%、22、5%、5%と配分が決まっていた。
つまり上位30%以上の成績だと4がつき、これは学年250人中75人に入れば良いことを意味した。これならやって_やれない気もした。ちなみに5は18人、つまりクラスで3位を意味し、これはとても不可能に思われた。
32群受験には、内申素点で38、つまりオール4に5が2つが最低条件になっていた。
オール2に3が3つの私は、2年3学期はとりあえずオール4の成績を目指すことにした。
そしてそのためには各教科どのようなことをすれば良いのかを、タナゴ捕りの工夫よろしく、次々にダイアローグして答えを出していった。
今思うと、タナゴ捕りの冒険の経験がなければその時に自分のアタマのハタラキはなかったのである。
英単語が覚えられないーどうするか?
数学で計算ミスするーどうするか?
国語で得点できないーどうするか?
技術や保健体育の用語が覚えられないーどうするか?
その他多くのことを繰り返しダイアローグした。
すぐに答えを得ることができるものもあったが、中には自分で良い答えを出せないものもあった。
実際ピンチに陥ること、そしてその解決策を自分で思いつくこと。しかも一つだけではなくいくつかの解決策を想起してその中から最善と思われることを選択すること。
考えてみれば、これは人間の普通持つ能力であるが、「火事場の大ヂカラ」からではないが、実際の「危機」に直面する事態がなければ発動しない力である。
しかし、「危機」とは必ずしも突然降りかかってくるものではなく、人が前へ進もうとする時に現れる困難の具体的な姿である。

17

私は、学年名簿から成績上位優秀者の家を自転車で確認して回ったが、その「調査結果」は、そのほとんどが、父親が会社員であり、一戸建ての家に住んでいることであり、アパートに住んでいるのは母子家庭の一人だけだった。公務員は宿舎に住んでいるのでそれと知れた。また商店の家の子どもも含まれていなかった。一戸建ての家の子どもが成績上位になりやすい、公務員や会社員の家の子どもが成績が良い。この「事実」は、子ども心ながら、訳のわからぬ不思議な感触を与えたが、逆に父親が会社員で、一戸建ての家に住んでいるのに自分の成績が悪いのはなぜかわからなかった。
三学期は期末試験が一度だけだった。
私は稚拙ながらそれなりに努力したが、成績は悔しいことに4が3つに3が4つに2が2つだった。単純換算28。これでも飛躍的な成績の向上だったが、前が悪すぎた。これでは32群受験に必要な内申点の10点以下の成績であった。英数国は全て3の成績で、4がついたのは理科社会と音楽だった。2は体育と美術。これは明らかに担当教師に睨まれている教科だった。
この結果、これまでの勉強法では全く不完全であることが判明し、特に英数国の対処は先行き暗かった。また内申点取りは、点数だけではないことが身に染みてわかった。あれほど努力した英語は、90点以上と思って返ってきた答案は68点だった。これは、やけに厳しく採点され、スナダと同じ答えであってもちょっとした綴り字ミスなどがあると全て×にされたからだった。この教師には、壁新聞記事の教師インタビューで、出身校を尋ねた時、「勘弁してくれ」と言ったので、それをその言葉通りに新聞に載せたことなどから嫌われていた。まあできたつもりの数学は泣きたいくらいミスの連続だった。国語は漢字をバッチリ押さえて70点以上得点したが、それより得点を伸ばすにはどうしたら良いかわからなかった。
自室水槽内のエンゼルフィッシュは、どう言うわけか、何度産卵しても孵ることがなかった。
何が悪いのか。今ならなんとかできたであろうが、流石に中学2年でのエンゼルフィッシュ繁殖は難しかった。
そうこうするうち、なぜかオスがメスを突っつくようになり、ハラビレの付け根を損傷したメスは他界した。
これまでの努力が全て水のアワ。おまけに英数国は絶望的。
お先真っ暗。最悪の気分で、春休み、年初収入で買ったブラームスを蹲って繰り返し聴いて自分を慰めていると、父親が、
「お前は本当に変わっているな。こんなものを聴いてどこが楽しいのだ」と口にした。
商家出身の父親には、息子がクラッシック音楽を鑑賞するなぞ理解できない姿だった。
もう完全反抗期、この頃はもう親が何を話しかけても「別に」としか答えなかった。
そうこうしていると、ある日外から「カッパー!」と声がするので部屋の小窓を開けると、そこにいたのは自転車に跨ったスナダだった。

18

これまでスナダが私の家にやってきたことはなかった。スナダの家にはなんとか入り込んで、イチキ同様、机の上が綺麗に整頓されて、教科書参考書ノート類が整然と本立てに並べられていることを確認していた。すぐにこれは真似をすることになったが。
門のところに出ると、スナダは言った。
「お前、中野学力増進会って言う塾のパンフレット見たか?」
当時はダイレクトメールなんて珍しかったので、一応開けては読んでいた。そこには終わったばかりの入試の塾生の華々しい合格例が並んでいた。
都立の合格群、私立の合格高名、出身中学名が並んでおり、上から12番までは全て32群合格と早慶高合格が並んでいた。
私は、内申点の絡む都立上級校受験はとても無理だと思い、それより下の早慶高を目指そうとしていた。
そこには、成績向上合格術のようなものが詳しく書いてあったが、そこは斜め読みにしていた。
ところが、その夜帰宅した父親がそれを読んで、この歴史上の人物以外の実在人物のことを滅多に褒めることがない男が、珍しくこう言った。
「これは非常に上手い文章だ。よっぽどアタマの良い人物が書いている」
黙ってその言葉を聞き流したが、この会社内での出世のやけに早い、大嫌いな父親の特徴の一つは、岸田と同タイプの、極めて常識的な判断を口にするところだった。
スナダが来たのはその翌る日のことだった。
「ああ、あれか。見たことは見たよ」
「オレ、これからその塾に行ってみようと思うんだ。もしよければカッパも来ない?」
塾に入る気なんて毛頭ないが、暇だし、父親の言葉も妙に印象に残っていたので「オモロい」と思って行って付き合ってみることにした。
場所は家から自転車で20分ほどの中野駅南口の線路沿い東中野方面への坂道を上った先にあったビルだった。今で言うゼロホールの斜向いに当たる、国鉄車庫脇の細長い建物の3階だった。
私はここで、「運命」の出遭いをすることになった。
それは今日の私の基を創る人物との遭遇であった。
この人物との偶然の邂逅がなければ今日の私はない。
それはスナダのおかげである。
そしてその人物があの文章を書いたからだった。
それにしてもスナダはなぜ私を誘ったのか。
今でもそのことを知ることはできない。

19

誰もいない、いかにも塾らしい教室の片隅の埃だらけのキッチン前にいた男は30代半ば。一目で当時言う「ヒッピー」のような姿で、髪は長髪でボサボサ、顔は髭で覆われ、洗いざらしのポロシャツにジーンズを履いていた。まさか「教師」とは思わなかった。何かの留守番役の変な男だと思った。しかしこれこそが後々私が「師」と崇めることになる人物だった。
おおよそこれまでの教師像の正反対の真逆。それどころか、こんな姿ではまともなところは歩けないと思われるものだった。
それまで吸っていたタバコを灰皿にもみ消すと、男は、眠そうだが妙に光る眼で、
「キミたちは何しに来た?」と尋ねた。
これには私がオグラに学んだ「役」を務める。スナダはこういう時は何も言わないで様子を見る性質である。
私は紙片を取り出して、前に伸ばし、
「このパンフレットにあることが本当のことなのか確かめに来た」と言った。
この言葉にスナダは驚いたが、相手は冷静だが、なぜだかこれまで見たこともない笑顔でニヤッとして言った。
「そうか。これに書いたことは全て事実だ。本当だ」
「つまりこれを書いたのもアンタか?」
「そうだ。僕が書いた」
「ではこの塾で上位20番ぐらいに入れば、早大学院に合格できると考えて正しいということか?」
「いや、必ずしもそうとは言い切れない。32群に受かっても早慶に落ちる生徒もいる。タイプによるということだ。もちろん充分な実力のついたものは軽く合格した。今年は10番以内は皆合格した。でも全員が西・富士に進学した。他に学大附属や私立武蔵に合格した者もいる。それにしても子どもだけできたのはキミたちが初めてだ。親の勧めか?」
なるほど、親と来るのが普通と見える。
「いや、別に親は関係ない。オレは、このオレの友だちが一緒に来てくれと言うからついてきただけ」
するとヒッピー男が、スナダに向かって、
「キミはどこに住んでいるのか、通っている中学校はどこか?」と尋ねると、スナダは、
「若宮です。中野4中です」とはっきり答えた。
「それは環7の向こうだな。ずいぶん遠いな」
「でもパンフレットは届きました」
「そうだ今年は4中の名簿も入手していた。生徒が一人だけいたもんで」
気がつくと私は、この「先生」ではない『先生』に、言葉にならない「共通性」を見出していた。かつてなく強く魅かれるものがあることを感じていた。
後年この男、富澤進平は、私との初対面の印象を、「遊びの天才が来たと思った」と語ったが、これはその頃の私への正真正銘の正しい評価だった。
遊びは得意、勉強はダメ。
その14歳の私を変えたのが、その後「師」が「亡くなる」まで50年以上の付き合いになることになる、この富澤だった。
現在私がしていることは、この富澤が私に植え付けたことの成果だといっても過言ではない。
その、私のその後の人生を決定づける人物との出遭いがこの時だった。

20

富澤は塾にはABC成績別のクラス分けの予定があることを語った。
私が、「スナダと同じクラスでなければ来ない」と言うと、
「それはテストをしてみなければわからない」と応じた。
とりあえず、入塾テストを受けることなったが、そのテストはこれまで受けたどのテストよりも難しかった。
テスト結果は、英数国220点超で他を圧倒的に引き離してスナダが断然トップ。これには改めて驚かされた。この後もこの男は、私の知る「優秀」の見本だった。
私はと言うと、なんと70数名中13位。私は当時から暗記主体の学校テストには弱かったが、実力テストだとそれより成績が良かった。というより、学校テストで高得点する者が、どういうわけか実力テストでは得点できないことが多かった。人が困るときに力を発揮するのが私の「特性」であった。すべては「遊び」である。テストもやる時は遊び。のびのびと全力で解答する。でも「不完全」。それが私の特徴だった。また答案に🔺が多く、妙に「部分点」が加えられていた。学校英語テストの逆。明らかにそれは富澤のなせる技と思われた。
この年は入塾者が多かったので、ABC3クラスに加え、その上にSクラスが置かれ、その定員は14名だった。
スナダと同じクラスになったので入塾することになった。
入ったクラスの生徒は、皆超優秀で、男も女も内申書は5と4しかない連中だった。私の内申点でこのクラスに属する者は一人もいなかった。
私は彼らから新たな「情報収集」をし、成績上位者がどのような勉強をしているのをますますはっきりと知った。

21

各校成績上位者の共通点は、普段からよく学習し、その上で試験前は徹夜をしてでも必要事項を覚えきるところだった。
普通の生徒に比べて勉強時間が長いーそれが彼らの共通点だった。彼らは「必要」と思ってやっているのだった。これは、見倣わざるを得なかった。
それにしても皆優秀だった。優秀ではないこちらとしては、優秀なくせになぜ塾に来ているのかわからなかった。
そして、そこには私のように子どもっぽいままである中学生はいなかった。皆どこかませた印象を与えた。
私はこれまでとは違う自分にならなければならないと感じていた。
これまでの自分のままでは学校成績は上がらない。
ではどうするか?
私は生活面でいくつかの取り決めをした。
マンガを読まない。テレビを見ない。かつての友達と遊ばない。そして学校ではどうしても必要なこと以外口をきかないことにする。
私は、この最後のことに実行によって、人に比べて大変遅ればせながら、自己コントロールの「意識」を発達させることに成功した。
思いついたことを口にしない。思いつかないようにする。思いついたとしてもそこへ移らない。すると授業が聞けるようになった。
意識的に気が散らないようにすることができるようになったのである。
こんなことは初めてだった。
私が授業中に何も言わなくなったことにかえって学校の教師たちは驚いた。中には「どうかしたのか?」と意味のない質問をする教師もいたが、例によって「別に」とだけ答えた。
富澤は、私がふざけてクラスが爆笑するのを上手に用いて飽きさせない授業を行なった。授業をしているのかふざけているのかわからない時もあった。起立礼などなし。フラ〜と入ってきて、「じゃー始めるよー」。それでもその解説内容は論理的で腑に落ちた。授業が面白い。ここでも自然とあまりふざけないようになっていった。
こうして自分よりアタマが良い生徒に囲まれてそこで揉まれてこれに慣れると、どういうわけかさらにジワジワと成績が上がってきた。
私は、英語科担当の富澤から教科書1課分の英文の和文英訳の課題を出され、これが信じられないことに、できた者から帰って良いシステムで、私は最後の最後まで覚えられずに残されて、帰宅が11時過ぎになって、親が心配した。
しかし、このおかげで、3年1学期の中間試験の英語は95点だった。これには同点のスナダも驚いたが、何せ日本語を見ればそれを正確に教科書通りの英文に訳せるようになっているのであるから当然と言えば当然だった。
綿密に4と3の境を探って、中間得点から高得点結果が必要な教科を絞り出し、初めて徹夜した期末試験ではまあまあの得点をした。
内申点は、オール4で体育だけが2だった。期末で100を取った英語にもなぜか5はつかなかった。3年次の評価はそれまでの学年の総合評価が加えられるということだった。これには参った。単に高得点するだけでは5は得られないことになる。しかし、後で聞いたが、職員室では急速に成績が伸びた生徒の代表として話題になっていたそうである。

22

1971年夏休み。私は朝から富澤の塾に駆けつけ、誰もいない教室で勉強していた。それに気づいた富澤が、たまにフラ〜っと寄ってくると、タバコ片手に困っていることの質問に答えてくれたりした。
富澤は、英語以外の数学、国語、理科、社会のどの教科も教えることができる教師だった。
私と会った時は35歳。「中野学増」を開塾して3年目だった。彼は、岡山朝日高から東工大の化学に現役合格し、そこで囲碁部のキャプテンとして活躍していたが、60年代学生運動盛んな頃に中退し、なんと文系の東京教育大の英文科に再入学してこれまたバイトのやりすぎで中退していた。彼は徒党を組むのを好まず、学生運動を横目で見るノンポリの学生だった。「バイト」とは、もちろんのこと、家庭教師と塾教師だった。
この塾は夏休みに2週間の尾瀬合宿もあり、なんと初恋失恋もして、若い羞恥心でいっぱいになる自分を経験した。
ここでは塾でのことはもう詳しく書くまい。今思うと恥ずかしい思いばかりが募る。
こうしてかつてなく濃い夏休みが終わり、2学期が始まると、すぐに学力テストがあった。
その結果を見て私は驚いた。点数は忘れたが、学年250人中11位、男女別だと8位だった。偏差値は65とあった。
この後もこれにとどまることなく、少しずつ順位を上げ続け、最後の12月の学力テストでは、なんと学年5番の成績になった。偏差値は70を超えていた。
これは、スナダとイチキ以外に二人しか「上」がいないことを意味し、どう考えてもそんなことはあり得なかった。それよりもかつての自分より優秀者はいったいどこへいってしまったのか。有頂天の中で不思議な思いに襲われていた。
二学期内申は、英語、理科、音楽と5がついて、あとは4で体育だけが3だった。素点合計が38(換算内申は43)を超え、実力テスト得点からすると32群合格が確実の成績になった。
ちなみに、かつてあれほど手に入れたかったエンゼルフィッシュの残ったオスは、勉強遊びに忙しい中、ある日「他界」していた。
しかし、私は成績を上げることを遊びにすることには「成功」していた。

23

私は無事に、スナダとともに都立西高に進学して、そこでまたとんでもない経験をし続けることになる。
西高進学が決まると、それを耳にした同級生たちは皆近付いてこなくなった。白い目で見る。どう考えても自分より長年にわたり同等以下であった私が、突然遙か上の成績優秀者になったことにどうしても納得ができず、成績だけを考えて隠れてガリ勉していた陰険な男というレッテルが貼られた。
友達も驚いたが、親や親族も驚いた。父親は、「信じられん。あいつ3%以内に入りやがった」と母に言った。誰もがバカでイカれていると思っていた子どもが、たった1年でそれまで考えもしなかったような「優秀君」に変身しているのである。今更ながら、「やっぱりあいつはどこかアタマが良いところがあると思っていた」などと弁解しても始まらない。
これは「運」でもある。単なる努力の結果ではない。だが、成績を上げることを遊びにすることを思いついたのは自分だった。
スナダと中学2年の時クラスが同じになったこと、そしてその彼に誘われて富澤と出遭ったことが大きいが、私がここで述べたいのは、あのタナゴ獲りの冒険がなければこれがなかったということである。
『伊勢物語』の「初冠」ではないが、中学生になると親の目を離れて自分で行動できるようになる。だが、自分で行動するとすぐに困難に直面する。頼る人がいないので、自らダイアローグする。「ではどうしたら良いか?」。自分の生活範疇を抜けて何かしようとすると、すぐにこのことが起こる。そして、自らダイアローグして、その答えを得て実行する。さらにその先も困難が連続して起こる。しかしそれは繰り返しのダイアローグとアイデアで乗り切る。「ピンチ」とは言っても、別に死にそうになるわけでもない。単にどうしたら良いか立ち止まって考えれば良いだけである。
勉強において、成績を上げようとする遊びに挑むことにおいて、私がしたのはまさにそれだった。
成績が上がらない。勉強できるようにならない。ではどうするか?私にその問いをさせたものが何であるのか、それは若さゆえの無分別と冒険心だったと思う。またテストステロンによる、他の者に負けたくないという闘争心であったと思う。
タナゴ捕りは、ガキから少年期に本格的に移行する直前の「セレモニー」だった。しかしその段階があってこそ、その「次」があった。
少年前期にテストステロンが健全に体内分泌されるには、それまでの充分な遊びが必要である。夢中になって遊ぶことで、目には見えない、アタマでも理解できない何かの元が蓄積されている。そして、これに併せて必要なのが、それまでの自分の範疇外に出る活動と体験である。
それは何かへの好奇心に基づくものであることは確かであるが、それを追体験・実践しようとする「精神エネルギー」はこの時期ならではのものであると思う。
そして、そこに、繰り返しになるが、「ダイアローグ」が起こる。
「じゃあどうするのか?」
危機や困難、ピンチに陥った時にするべきことはこれである。
自分で考える。自分で思いつく。自分で実行する。
しかし、これは子どもではできない。「少年」にならないと実行できないことである。
そして、「少年」は、そのことによってこそ成長する。
好奇心と追体験、直感と決断と実行の繰り返し。
『私の魚遍歴』―この奇妙な題の文を書き続ける理由は、そのことを伝えたいがためではなかったと思えてくる。
だがそれは、この文を書いている最中に起こった、信じられない出来事に遭遇するための「呪術」であったことになった。

24

この後私は西高を卒業し、2年浪人して、結果的に慶應大の文学部に進学した。哲学を専攻するつもりで入学したが、教養課程の授業も三田での授業も面白くなく、家庭教師のバイトに精を出していると、ある時偶然に新宿歌舞伎町の路上でスナダに出会った。スナダは現役で早慶に合格し、それを蹴って横浜国大に席を置きながら仮面浪人していたが、3回目も文1に落ちていた。その後ろから現れたのがジーンズブーツ姿がよく似合うキタムラだった。他に並ぶ者がない読書家とされたキタムラとは西高で一度も話したことがなかった。彼も早大政経に席を置き、文1を受験したがこれまた失敗していた。
彼らと飲んでいると、シルクロード横断旅行の計画を提案された。
この後のことは書くと本当に長くなる。これはインド・ムンバイ〜フランス・パリ間を自動車で走破する旅だったが、筆舌に尽くし難い困難の連続で、今更タナゴ捕りの時のダイアローグどころではなかった。事故、故障、通行不能、遭難、盗難、絶えず困難と危機が起こり、すぐにその次の行動判断を自分たちで下さなければならなかったのである。生死の境を脱してイスタンブールに辿り着くのに3ヶ月もかかってしまった。その間全く日本に連絡せず、いやとてもできない状況に陥っていた。親たちは、連絡がないので、「どうやら死んだ可能性が高い」、「優しい子だったのに」などと話したそうだ。
これは、私が「少年」から「青年」に至る過程の旅だったが、これまた行く前と完全に異なった人間になって、5ヶ月後にパリから帰国した。
諸国、特に西アジア地域を旅するうち、私はもう父と同じような一般日本人社会の価値観の延長には「幸福」はないと直観し、これとは別の生き方をしようと決めていた。
富澤は、帰国した私に再会すると、自宅でやっている個人塾の教師をするように依頼した。私はこれに応じた。
富澤とは、その後も富澤が塾や個人指導をやめた後まで付き合いが続き、その間に私は再度のインド旅行を試み、しかも大学を卒業するとすぐに結婚した。「小説が売れるまで」と就職せずに家庭教師のバイト生活したが、それは家人曰く「趣味」に終わった。
1995年ごろ、不動産屋からの連絡で、保証人になっている富澤が家賃滞納していると言ってきたので連絡を取ると、中央図書館の梯子から落ちて頭を打ち、中野総合病院に入院していたことがわかった。その後アパートを出て、しばらくホームレス生活をしていたが、生活保護者となり、ボロアパートの住人として生活するようになった。さらに同じ病院の検査で胃癌があることがわかり、その手術を受けた。
その後も、月に1回ほど、時間がある時に車で高井戸温泉に連れて行き、そこで寿司を食べるのが定例になった。なぜか富澤は毎回アジ、サバ、イワシと「ひかりもの」ばかりを食べた。今思えばそういったものに含まれる栄養素が不足していたのかもしれない。
富澤は、一日1000円以内で生活していた。朝はロイヤルホストのカウンターでモーニングをとって長時間。夜は、3玉90円のうどんを買ってきて、その一つをカセットコンロの上の鍋に入れ、余っている野菜を加えて煮て食べるだけ。刑務所の食事より酷かった。冷蔵庫や冷暖房は使わなかった。
2021年の暮れ、富澤から電話があり、「公園で倒れて救急車で運ばれて中野総合病院に入院している。足が寒いのでレッグウォーマーとオムツを買う用のお金を持ってきて欲しい」と言ってきた。しかし当時はコロナ下で、ナースステーションまでしか近寄ることはできなかった。
看護婦に病状を尋ねると、「カリウム不足」ということで、長くなると思うのことだった。何度目かの時に、同じ看護士さんに、名刺を差し出して、「もし富澤に何かあったら電話して下さい」とお願いすると、どう言うわけか暗い顔で、「でもだいぶ認知症も進んでおられるので・・・・・」と言うのでこれは最後かもしれないと覚悟した。やがて、電話もかからなくなり、しばらくしてこちらから病院に電話すると、「そのお名前での在院者はいません。それ以上のことはお答えできません」と言うので、アパートへ駆けつけると、そこはすでに掃除されてもぬけの空だった。
富澤は死んだ。そして跡形もなくなっていた。だが、それは富澤の望んでいたこと。この世から完全に姿を消すことが彼の願いだった。
「オレが死んだら、灰を太平洋に撒いてほしい」
先年、富澤が幼くして亡くした実母の墓を探して新潟県魚沼津南町を旅した時、田んぼの中のボロボロに朽ちて誰の墓かわからない墓を前にして、富澤はそう言った。
しかし、単なる保証人で親族ではないので、アクセスしようがなかった。どこかに富澤の骨が安置されているのかとも思ったが、わかったところで親族でなければどうしようもない。そしてもし、遺骨を手に入れたとしてそれをどうやって太平洋に流すのか?それは許可なくやって良いことなのか?
その後も私は何度も富澤と心の中で対話した。
私にとって、これほどまでに心の中で対話した「死者」はかつていなかった。
『源氏物語』について、何度も聞いたことがある話を繰り返し話す姿を想い出した。
大学入学後、富澤は私がとった授業の、ジョージ・メレディスの『リチャード・フィーバレルの肖像』の英文会読を共に行い、私が禅に興味を持ち始めると、『無門関』、『碧巌録』の禅問答研究を共に行い、さらには『源氏物語』の会読を共に行なった。今思うと、市井周囲誰にも相手にされない知的題材を私と共有して楽しむがためだったかと思われる。後に富澤と共著で『源氏物語のラクラク読本』なるものを出版したが、これは富澤が書き過ぎるところを私が削除して作ったものだった。
生涯独身、天涯孤独の富澤は、私の結婚をとても喜び、数年して娘が生まれると駆けつけて手を握ったりした。
50年以上続いた師弟関係、それが富澤と私の縁だった。
その富澤が、誰にも看取られることなく逝ってしまった。
私に最も多くの影響を与えた人物が他界した。
だが、富澤は1937年生まれ、享年84歳、来るべき時が来たと噛み締めて堪えるしかなかった。

25

これを書いている2月1日のことだった。家人が、「中野区役所から富澤先生のことが何ちゃら留守電が入っているから聞いてみれば」と言うので、なんたる偶然と思ってこれを確かめると、丁寧な女性の声で、「こちら中野区役所生涯福祉課のものですが、富澤進平さんのことで、お知り合いの方かと判断して、大変勝手ながら松永さまにご連絡させていただきました」とある。
すぐに電話すると、「富澤さんのお知り合いですか?」と言う。
「恩師です」
「まあ、恩師ですか」
「そうです。僕を西高に入れたのは富澤です。僕が今日あるのも富澤のおかげです」
第3学区中野なので思わずこう言った。
「と言うことはご親族ではいらっしゃらないんですね」
「そうです。富澤は天涯孤独で知り合いもなく、アパートは私が保証人になっていました。ひょっとしたら異母妹さんが生きていらっしゃるかもしれません」
「生きていらっしゃるのは・・・・・」、相手のこの言葉を遮って喋り続けた。
「僕は富澤と月に一度風呂に行って寿司を食べたりしていました。ところがコロナ下で中野総合病院に入院して、それっきり面会できなくなってしまいました。携帯電話も通話不能になったので、看護婦さんに何かあったら連絡してくださいとことづけしましたが、だいぶ経って病院に連絡すると、在院しておらず、それ以上のことは生死も含めてお答えできないと言うことだったんです。すぐに富澤のアパートに行くと、そこはすでにも抜けの空。それっきりになってしまいました。せめて命日でも知りたいと思っていました」
「いえ、生きてらっしゃるんですよ」
「えっ?誰がですか?」
「富澤さんです」

26

「本当ですか!」、思わず大声を上げてしまった。
「先日面会しました。中野区の福祉施設に入ってらっしゃいます」
心臓がバクバクする。
「生きていたんですね。ボケてなかったですか?」
富澤はかつて、「いつ死んでもいいが、ボケる前に死にたい」、とかねがね口にしていた。
「多少認知症は出ているみたいですが、会話することが可能な状態です」
「なんてことだ。信じられない!僕はてっきり亡くなったと思っていました。なんと嬉しいことだ。信じられない。すぐにお会いしたい。そうして手でも握ってやりたい」
「こちらは、お持ちになっていらした書類の中に松永さまのお名前を見つけましたので、失礼ながら勝手にお電話させていただきました」
「いいえとんでもない。よく連絡してくださいました。ありがとうございます。感謝します。それで、どうすれば富澤に会えるんですか?」
「それが、親族さまではないので、あちらさまからのお望みが確認されなければお繋ぎできないことになっています」
「やっぱりそうですか。ではお待ちしていますので是非よろしくお願いします。私は富澤との共著もある者です」
これを言いながら、すでに予めネットで検索しているかもしれない、「書類」と言うのは、本の著者名を見てのことではないのかという考えも浮かんだが、だとすれば、電話番号はどうしてわかったのか。やはり不動産屋の保証人の書類がもとではないか。しかし、女性の声は庶民的ながら上品で、内申点の取りやすい性格の良いきちんとした人に思われて、改めて感謝とお願いをして電話を切った。
信じられないことである!
死んだと思った人が生きていた!
師は1937年生まれ。だとすると、この1月4日に87歳になっていることになる。
若い頃に強いタバコを吸いまくり、あのホームレスも経験する厳しい生活をして、胃を半分切除する手術を受け、84歳で再度倒れて長期入院して、その後あたかも老子の如く行方不明。死んだとしか考えられなかった。これまでアパート保証人の私にはなんの連絡もなかった。そんな彼が長生きしているとは今や驚きとしか言いようがない。
ともあれ完全に他界したと思い続けて3年。
その師が「生き返って」きた。
これはここにこれを書いていることと何か関係があるのか。
いやそれは偶然である。
偶然に違いない。
しかしそこに偶然ではない何かを感ぜざるを得ない自分がいた。
これを書かないと、こういうことは起こらなかったのではないかと。

27

LEDライトに照らされた90センチの水槽内には、種々の水草の間を色とりどりの魚が泳いでいる。
アマゾン原産のネオンテトラとカージナルテトラの約25匹の群れ。
菱形のレッドファントムテトラ9匹は、同じく南米コロンビアの魚。
素早く動くサイアミーズ・フライングフォックスが5匹。これはタイの魚で苔を食べる。
パンダ5匹にステルバイ1匹のコリドラス。これらは低層掃除担当。
スネール(=貝)を喰うアベニーパファー3匹はインドの淡水フグで水槽内最小である。
水面近くを泳ぐ楊枝みたいなのはカマスの仲間のサユリ科ゴールデン・デルモゲニー。これはマレーシアの魚。
何かにへばりついているのはオトシンネグロ3匹。これはブラジル南部の小ナマズで苔を食べる。
ここに数匹の国産ヤマトヌマエビとミナミヌマエビが泳ぐと言うより動き回る。
みんなとても美しい。
見ていて飽きない。
あのエンゼルフィッシュと同じ。
じっと見つめていることができる。
それは魚が動いているからか。
何かをしているのかが観察されるからなのか。
それとも言葉にならない不思議な魅力のなせる技か。
多くの生徒が楽しむが、全く関心を示さない者もいる。
昨年3月の事務所教室移転に伴い、新規の場所で私が環境設定しようとしたのは、そこを子どもたちにとっての「癒しの空間」にすることだった。都市内学校生活で疲れ果てた子どもたちに元気を与える場を作りたい。焚き火と古民家教育の次に私がするべきことは子どもたちに癒しを与える教育環境設定を実現させることだった。
最初にネットでこの井の頭公園実近の場所を見つけてきたのは今田だった。私はほぼ即決した。全ての部屋割り壁を取り除き、室内の間接照明と木調デザイン設計は上野が担当した。壁には私の所有の芸術作品を飾りつけ、原の提案で「お籠り室」も作った。お遍路帰りの大澤は近くに引っ越してきた。自家製「神棚」も作り、天井からは秋元秀成氏制作の高性能瓢箪スピーカーを吊り下げた。
玄関には気持ちの良いソファを置き、その上には私の芸術上の師である納富慎介の絵を飾った。さらにその横壁には川村忠晴氏の枯葉電灯コラージュ作品を掲げた。
さらにそこに、何本もの木の鉢植えを購入し、室内とベランダは植物でいっぱいになった。夏のベランダではトマトを育て、それを子どもらが食べた。
ベランダのトロブネには多数のメダカが泳ぎ、その上の60センチ水槽にはバラタナゴと白メダカが泳ぐ。
そのほか知的玩具の棚、作業用移動可能長テーブル、その前に仰向けになれる150㎝のソファベンチも設えた。
やりたいことはほぼ皆やった。
だが、まだ何かが足りない。
「完成」しない。
そこで上野さんに、「ここに90センチ水槽を置いて、さらにその上にバッチリの絵を購入せんとするがどう思うか?」と聞くと、彼はニヤリと笑みを浮かべて、奥行きの深い真剣な眼差しで、
「それはもう、とことんやるといいと思うよ」と答えた。
その結果がこの目の前を泳ぐ魚の群れである。
そしてこれが現在の、子どもたちが喜んでやってくる吉祥寺御殿山教室事務所の室内の姿である。
言うまでもなく私は、これまで最大の「魚遍歴」を過ごしており、毎日掃除と水替えと餌やりに勤しんでいる。
初めに「マンボウ」がなければこれはあり得なかった。そして「エンゼルフィッシュ」が存在しなければあり得なかった。そしてタナゴ捕りがなければこれはあり得なかった。さらにはスナダや富澤との出遭いがなければこれはあり得なかった。
そして、もしその延長線上でここに富澤のことを書かなければ師が生存していることの確認ができなかった。そう信ぜざるを得ない「偶然」が今回の執筆中の出来事だった。
今回珍しいことに、執筆連続を期待して、少なからぬ方から直接間接の励ましの声をいただいた。
それがあってこそ執筆を連続できたのも事実である。
文章を書くのは面白い。それはそこに次に何が現れてくるのかわからないから。
それが追体験の連続になるから。
「偶然」はやってくる。
あたかも「必然」の如くに。
「偶然」はやってくる。                                                             
「追体験の旅人」を選択する者の上に。  

                                           2024.2.7

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