「松永節」について

最近このブログへの投稿が著しく減っている。
それは、著作を最優先にしているからであるが、その他にも忙しいことが多いからでもある。
普段の仕事の他に、Zoomで講演、オンラインサロン、雑誌、新聞のインタビュー、それに毎週のように音読指導者養成講座とリベラルアーツとこなしていると、加齢のせいか、だんだん気心の知れた人たちとでしか使わない言葉遣いで、素のままの自分の言葉で語るようになってしまう。
家ではこの言葉遣いは、東京郊外土着の公立高出身者言語として、下品で恥ずかしいもの、と言うよりも恥ずかしさを自覚しない厚かましい言語として忌避され、半ばタブー化しているが、油断しているとつい出てしまう。
「それは金がネエからじゃねエーの」などと口にすれば、
「じゃねエーじゃなくて、じゃないと言えないのかしらね」と言われ、
「やっぱしそうに決まっているよ」と口にすれば、
「やっぱしはダメ」
「じゃあ、やっぱり」
「やっぱりも下品。やはりと言うのが正解。それに、すぐじゃあと言うのも良くない」
「オレにはそんなことできねエーよ」
「また言った。オレ。いったい自分を何様のつもりでいるんだろうね。」
「じゃあ何と言ったら良いのか?」
「またじゃあと言っている。それは私、もしくは僕に決まっているでしょ。知らない人の前でオレとか平気で使うのは恥ずかしいことだわ」
この女は何を基準にそんなことを言っているのかと、まるで公立小学生の頃のように強く反発を覚えるが、その想いが表面化しないように抑制する。これは公立高進学のための内申点を取った時に身につけた知恵である。
公立高では口論で相手に打ち勝つ言語力だけが重要であった。「バーカ」と言って相手を黙らせるのが重要ポイントであった。「オレ」の代わりに「私」を使うのは、かえって自分の意見の正当性を強く主張しようとする時だった。普段は「オレ」「オマエ」。「キミ」「アナタ」なんて呼んだらヘンタイと思われた。
下層民間でこそ使用可能な、東京中野杉並あたりで使われるド庶民流通発達ブッキラボー言語。この言語の文化背景には、なんでも思ったことを口にしても平気、自民党も社会党も公明党も共産党もあったもんじゃあないと言ったごった煮ムードがあり、これが公立高校で主張を強めるためのやや「下品」さを許容した言語につながっていると思われる、なんちゃって。
ところが先のように、露出の仕事に慣れてきて、また多くこれをこなさなければならなくなると、つい公立育ちの言語が出てしまう。
先のように、家人によってこれを「恥ずかしいもの」と感じさせられる「教育」を受けているので、ちょっとマズいかなとか思っていると、意外な反応が多く出た。
見た人聴いた人の反応で最も多いのが「スカッとした」と言うものになったのである。
おまけに面談に来た人からも「スカッとしました」と言う感想が送られてくる。
世の中のメディアで、スカッとすると言う言葉が流行っているのだろうか。
昔なら、スカッとの後に来るのは「爽やか」であるが、私と会った後で爽やかな気分になれるとは家人からしても到底信じられねエ、じゃなく信じられない。
スカッとするとは、どちらかと言えば体内に何かを入れることではなくて体内にあったものが外へ出ることによって起こる感触ではないのか。
するとその最たるものは「排便」と言うことになるのが自然だろう。
すると、私の話を、つまり都立高言語を耳にすることは、排便後の快感に似ていると言うことになり、これを「下品」と捉える家人の感性は一面では正しいことになるのか。
昔大学生の時、高校時代の友人の車に同乗している時、流れている音楽に合わせて、私が歌を口ずさむと、途端にその友人が、「アッ、オレ急に小便したくなったから待っててねと車を止めて公共トイレに入って行ったことがある。しばらくして、また私が歌を口ずさむと、すぐに友人が、「あっオレ、また小便したくなっちゃった」と言って道端の草むらに入って行って用を足した。
戻ってきた友人は、もちろん手も洗わずにハンドルを握り、
「なあ、松永、これまで常々思ってきたことだがオマエに言わなかったことがあるんだ。あのな、オマエの歌にはどこか小便を催ささせる力がある」と言った。
「ふざけるな。何を言っていやがるんだ。オレの歌とオマエの小便のどこに結びつきがあるのだ」
「それは言葉では説明できない。だいいちオマエにそれがわかるワケがない。これは感性の問題だ。だが親しい友人としてオマエのために教えておく。お前の歌にはなぜか人に小便を催ささせる何かがある。このことを心に留めておいてほしい」
私の言語が下品なのはこうした友人たちのせいであるが、こうした者たちにこうしたことを言われるとは、もはや何を口にしても耳にしても気にしないと言うことになるのかもしれないが、そんなことはない。私はできるだけ理性を保つ。
話はそれたが、私の素の喋りを「松永節」と呼ぶ人もいる。
旧知の人たちから、「コロナが終わったんだから、久しぶりで松永節を聞かせて欲しい」などとメールがくる。
もちろん誰にも会う暇はない。
これから授業に出る。3件やって夜はリベラルアーツ。
雨が降らないと良いが。

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