ライギョの味わい

その男の子は、小学低学年の頃から誰よりも大きな声でカタカムナ音読をする生徒だった。
小学六年。今度は作文が習いたいと言う。
もう十年以上もこの地でカタカムナ音読を教え、作文法を伝えてきたが、それを学んだ者たちは皆、順調に進学し、地元国立大や東京や大阪の大学に進学した者も少なくない。そして、そこには中退した者がいない。
文章が書けるようになっていることは、学年が上がれば上がるほど有効な学習能力になる。我々は言葉で学習し、言葉で思考して理解する。そしてそれを自分の言葉にまとめることによって自分のものとする。
文章が書けるようにするためにはまず充分な音読が必要である。
古典文の正確な音読で、日本語の意味の伝わり方とリズムを体得する。
あとは、ネタ=体験があれば、それをもとに抽象構成すれば、誰でも作文が書ける。
そして、一度それを知れば、そこから先はいくらでも書こうと思えば書けるようになる。
今年は、九州大学の大学院に合格した生徒も出たので、小学段階でのカタカムナ音読による日本語能力リセットと抽象構成作文が高学歴対処にも有効であることがますますはっきりした。
一応この地での「実験」―中央から離れたところに住む子どもたちにカタカムナを教えるとどのようなことになるかーの結論は出たと言える。

―何の作文を書くのか?
まずこの質問に、ニヤニヤして元気の良さそうな大声で答えた。
「それはぼくの得意なことです」
「ほうそうか」と言って、A4の紙の中央に、「ぼくの得意なこと」と書いて、それを丸く囲んだ。
―で、キミの得意なこととは?
「魚取りです!」
―魚取り?それはワシの子どもの時と同んなじじゃ。でもじゃ、他にも何かボクの得意なことがあるじゃろう。それは何か?
「それは、スポーツです」
―ほう、どんなスポーツ。
「たいがい何でも。走ること、投げること、蹴ること、おまけに木に登ることも、ほぼ何でも一番です」
―ほうそれはすごいね。それなのに自分の得意なことは魚を獲ることなんだね。
「そうです。魚だけではなく、ザリガニも、モクズガニも、カメもスッポンも捕まえます」
―すごいね。ちょっとこれまでに捕まえた魚や生き物をみんな言ってみて。
と言ってメモを走らせると、コイ、フナ、ドジョウ、ハゼ、ウグイ、オイカワぐらいまではついていけたが、その先は現地名らしくどんな魚なのかわからなかった。カメスッポンおまけにナマズにライギョも入れると30種類くらいある。それにしてもどうやってその名を知ったのか。
―ふーむ。信じられないことだね。いったいどこでこれを獲っているのか?
「自宅近くの川と、ばあちゃんの家の近くの川や池です」
「こうした生き物を捕まえてどうするのか。家で飼うのか?
この質問に対する答えは急転直下、やや驚きだった。
「それは全部食べるのです」
―えっ?全部食べる?どうやって?
「ハイ、大抵は油で素揚げにして食べます。魚は生で食べることもあります。ウグイなんか生で食べると美味しいです」
―大丈夫なのか。川の魚はともかく生き物はバッチーこともあるぞ。
「病気になった場合のことを考えて、すぐ保健所に伝えられるように、調理する前にスマホで写真に撮ってから食べています」
―美味しいのか?
「ハイとても。」
―ライギョとかも食べたのか?ワシも昔大きいのを釣ったことはあるが。
「ハイ食べました。唐揚げです。タラみたいな白身で信じられないくらい美味かったです」
―スッポンは?
「スッポンはまだ小さいので飼育中です。家の池で飼っているのは自分で名前をつけちゃったのでもう食べることはできませんが、ばあちゃんの家にあるビオトープの2匹は、妹が名前をつけて飼っているので食べることができます。バスやギルといった外来魚はまだ獲ったことがないので、早く獲って食べてみたいです。外来魚駆除にもつながります」
あいた口が塞がらない。これまで単に川の魚や生物を獲るだけの子どもには自分も含めて何人も会ったことがあるがそれを全部食していると言うのはその一枚も二枚も「上」の「将来有望」のスッポンから見た月である。
―スッポンの名前はなんて言うのか?
「ポン助です」
―ポンスケ!エエイ、オレはもういったいなんの話をしているのかわからなくなってきたぜ。これでもうたくさんだ。原稿用紙に、「ぼくの得意なことは・・・」で書き始めて、スポーツ関係のことを思いつくだけ記述せよ。オレはその間に下の自販機に行ってコーヒーを買ってくるがキミは何が飲みたいか?
「スープです」
―なるほどね
戻ってきて、
―次、行替え。「しかし、ぼくが本当に得意なことは魚や生き物を獲ることです」に続けて、「これまでに獲ったのは」で始めて、さっきの魚やスッポンをみんな書け。
―書いたか?では行替えして、「実は、」で書き始めて、全部食べることを書いて、食べ方やスマホ撮影などについて書け。
この調子で最後にスッポンの話まで書いて、
―なんかこれじゃあ終われないな。そうだ。こう言う人間は将来何になりたいのかを書くのはどうか?オマエは漁師になるのか料理人になるのか?
「いいえボクが目指すのはキックボクサーです」
―キックボクサー!? なんで・・・?
「ボクの父の周りには格闘家の友人が多くいて、この人たちは皆大の釣り好きなんです」
―なんで格闘家が釣りを趣味にするのか?
「それは格闘技は動きっぱなしの動ですが、釣りは魚がかかるまで静の時間があるからだと思われます」
―それがキミの将来にどうして結びつくのかどうだかわからないが、なかなかオモロい意見だ。ではそれを書け。

こうして出来上がった作文はめちゃめちゃ面白いものになった。何せネタ=体験が良いのである。考える必要がなく、言葉が飛び出してくる。
親を含め読んだ人みんなが感心したが、一番満足したのは本人だった。
カタカムナ音読があれば、テーマを決めて、観念抽出ダイアローグして、それを抽象構成すれば誰でも自分で良い作文が書けるようになる。
でもモクズガニやライギョが食べられるようにはならない。そこには個人の「体験」がある。体験こそが知恵の元である。そしてその体験の元は好奇心である。つまり、自らの好奇心に基づく体験を躊躇なく行う環境を与えることが、子どもにとって最良の教育環境設定となることになろうか。

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