若者がするべきことは「旅」
「夢」とか「現実」関係なしに、とにかく自分のしたいことは何か?とダイアローグすれば、常にそこに返るのは「旅」という一言である。
「旅」はいいなあ。
毎日が非日常の新鮮な体験の連続。
そしてそこにおける自分は、無名の旅人。
もし今、自分が20代であれば、何をおいてもとにかく旅に出ることが「最上」と判断していることだろう。
私はそもそも、いつでも旅に出ることができる、しかもその「資金」のために個人教授のバイトをしてきた。
しかし、どういうわけか、結婚して子どもができてから、その人生がそうではないものに狂い始めた。
私はただ単に生活のために「バイト」していたのではない。そうではなくて、いつでも自由に旅に出かけられるようにするために「定職」を持たないようにしていたはずだった。ところが、1ヶ月どころか1週間も連続して巣を空けられなくなってしまった。それどころかもはやバクパッカー姿で旅行する体力がなくなってしまっている。もう生涯自由気ままに旅をすることはできそうにない。
しかし、若者には体力もヒマもある。余計なしがらみがないから、ヒマになろうとすればヒマになれる。
ゲームをする、ボケっとネットを眺める。そんなことをするよりも旅に出る計画を立て始めることが正しい。
貯金があれば、少ない資金で海外旅行に出かけることもできる。
若者の特権は「ヒマ」になることができることである。
都市生活の中でうざうざ考えて悩んだり、現実世界に溶け込んでアホになって自分を忘れようとしたりすることよりも、とっととこの国の外に出て追体験の連続を経験し、逆に世界全体から見たこの国がしていることを知ることの方が有益である。
外国に出る。
これには書類を自分で読んで理解して判断する能力が求められる。
英語並びに滞在予定地の外国語の準備も必要だ。
本を読んで情報を集めることも必要だ。
なんとなく大学へなんぞへ行くよりも、このような主体的な学習をする方が何倍も意味がある。
大学も、体験豊かで学ぶことが決まっている学生が欲しい。
松尾芭蕉(1644〜94)が『奥の細道』の旅に出たのは1689年、45歳の時だったが、自称を「翁」としている。死の5年前のことになる。
芭蕉の敬愛する「古人」の一人、宗祇(1421〜1502)が亡くなったのは、箱根湯本の旅宿だった。当時は考えられないほどの高齢だったが、それでも旅の途中であるというには恐れ入る。これは死を覚悟して旅をしている。いや、死と引き換えに旅をしている。この人にとって人生とは旅そのものなのである。
考えてみれば、ブッダも孔子もイエスも、生涯旅をしっぱなし。
なんでか?
その理由はわからないが、どうやら旅をすることは、芸術家や聖者にとって正しいことであるらしい。
「旅」が与えるもの、それは旅する者にしかわからない。
私は若い時にやや旅をした方かもしれないが、その「おかげ」は信じられないほど大きかった。
何をしたら良いのかわからなくなった時、自己存在の肯定感が欲しい時、するべきことは旅である。
学校教育から逃れる「不登校」だけでは足りないね。この国の社会から逃れる「旅」に出なければ意味がない。
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