再び机上

旅に出て英気を養い、再び机上と「日常」で執筆の構想を練り続ける。
部分に、「足りない」と予測される「情報」があるが、「ナマ」の情報については一応誰にも負けないはずだと「自負」する。
するべきことは、まるでパン生地を捏ね回すような抽象化作業である。
何度も同じところを巡回する。
イメージすること、想起すること。
「大きく膨らむもの」は偶然の現象であり、「マジック」である。
やがて、巡回の「軌跡」が濃くなってくる。
「観点」、そして「味付け」。
やはり、日本の教育はそのヘンタイ性を自己認識できないから「ヘンタイ」なのである。
これは、「日本」という認識の仕方に単純な「錯誤」があるとも言えるが、誰もがパンツを着用するのに、褌(ふんどし)を履くことを強要すれば、それが良かろうが悪かろうが、個人の勝手でもあろうが、一種の「ヘンタイ」の比喩の象徴性の一つになるのである。
自分たちがこうだと思う判断根拠が「ヘンタイ」。個人の趣向を超えた「集団ヘンタイ」。
すでに過去の産物。
これは子どもではなく、ほとんどの大人にとって受容不能のことであろう。
いきなり、「アンタには過去的ヘンタイの部分がある」と言われても、その意味を正確に認知する人は稀であろう。
ましてや、自己の価値観を固定化した人たちにとって、ウルトラ多様化した新しい世代が生まれてくることなど容認したくないことだろう。
だが、新しいものが必ず勝つ。生き残る。
なんとなれば、「旧く」なって状況が掴めなくなっているにもかかわらず、それに固執する宿命の人たちは、自己の現在ある立場と状態を「温存」することだけを考えて、変化に必要な新しいことを思いつこうとはしないから。そしてその間に、どんどん時代が加速されて、ますます「旧い」ことが確実になって不要の存在となってしまうから。
旧いものは生き残れない。旧いものの中にあった「ヘンタイ」部分は生き残れない。いつかなくなってしまう。
問題はそれまでの間どうするかということだ。
昨日午前、雨の降りしきる中、音読指導者養成講座を行った。
皆確実に練習してきており、その「上」の次元の伝達が可能になるのは喜ばしい。
会が重ねられて、だんだん感性抜群であるはずの参加者の「正体」が明らかになってくる。
その「核心」には、私が体験習得し提唱する「アタマがヨクなる教育」のコアを知りたいという好奇心があるのかもしれない。
シガラミ(=洗脳)の追認識と客観化。
我々の中にあるとてつもない個人的な可能性の追求。
そうではなくて、そんなことは全く教えず考えさせず、ただ愚かさの従順的「自覚」により、他者の命令を聞くことによって生きる道を選択させるべく「教育」はあった。個人の可能性をできるだけ埋没させるようにすることが「教育」だった。
そのことへの「認識」。
ボケっとしている善良者、それゆえに「低賃金労働者」を生み出すことができる「システム」。そのことは、生産拠点の海外移転と、外国人労働者を導入することにつながっていく。
やや高学歴者ほど早くこれに気づくのは、「必然」とも言える。
でも、日本語の了解と、そして運用の能力に、周囲他者より優れる者は、必ず集団内で「優位」な立場を得る。「高学歴」にもなりやすい。
コロナワクチンなどよりも、カタカムナ音読ワクチン接種を義務付けることが先決であると考える。
そして何よりも大切なのは、次々にやりたいことを思いつく能力の開発とその実践だ。

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