夏至過ぎ満月前記述

今日は夏至であり、明日は満月である。外は雨であるがその波動下での記述を試みる。

若い頃、哲学科というところに進学してすぐ気づいた。それは言語が不完全なものである以上、それを用いて究極的な哲学的な真理を把捉、言語化することは不可能であるということである。
ではどうするか?
そのダイアローグに対する答えは、「言語の可能性を追求するために言語で意識的にふざけること」というものだった。
というわけで、「冗談」で文学するのが正しいと考え、「冗談文学」の実践創作に勤しんだ。目指すは、ラブレー、セルバンテス、そしてバルザックである。これは現在も進行中ではあるが、今生でその完成が不可能であることも見えてきている。
もしもカタカムナが宇宙的真理を伝えるものであるとすれば、その真理を現在の不完全な言語で置き換えることは限りなく不可能に近いことであるはずである。必ずそこに個人的解釈を入れなければ言語化できない。
しかし、カタカムナに親しめば、人はそのアタマのハタラキをそれまでとは別のものに変えることができる。子どもたちにしてみれば、それはアタマがヨクなることである。
カタカムナ研究者に共通することは、普通の人とは異なったアタマのハタラキをしている人たちということである。
おそらくはそのアタマのハタラキは「未来的」である。
私はある意味それで「充分」だと思う。
繰り返すが、もしカタカムナが宇宙的真理を表すものであるとしたら、それを個人の能力で言語規定することはできない。各自の了解したところは全体の部分に過ぎない。全体の部分に過ぎない理解で、これまた全体の部分の理解で語る者を論駁しても意味がない。それはあたかも川を挟んで届かぬ対岸に石を投げ合うようなものである。
だが、カタカムナを知る者は皆、それがアタマのハタラキをよくするものであることを知っているはずである。だからカタカムナを継続する者は、それを世間に広めようとしている人たちということになる。
私は、少しでも早く、できるだけ多くの日本人の子どもの耳にカタカムナの音が届く日が来ることを願っている。
そうすれば、彼らの多くが未来の「カタカムナ人」となって、そしてこの世界を変えてくれる人たちになってくれると思うからである。

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