文章が書けるために必要なことについて

『日本の教育、ここがヘンタイ』でも紹介したが、最近私の生徒たちには文章をバリバリ書く者が多い。
しかも彼らは、作文や日常エッセイの域を超えて、短編小説、長編小説、SF小説と書くようになっている。
彼らは書かねばならぬから書くのではない。書くことが楽しいから、書くことの楽しさを覚えたからこそ書いている。
言語で自在に自分のイメージや考察を記述する。
それほどアタマに良いことはない。
書けば、「進歩」=「手応え」を実感できる。
自分の「ナマ」の姿が見えてくる。
それは楽器を上達しようとすることに似ていることかもしれない。
が、しかし、彼らはなぜそうなるのか。
なぜ彼らはスラスラ書けるようになってしまっているのか。
それは絶対にカタカムナ音の「洗礼」=「日本語リセット」によると思う。
カタカムナ音読法を行えば、本を読むことは簡単になる。
抽象構成作文法を知れば、作文を書くことは容易になる。
リベラルアーツに参加すれば、岩波文庫文体を体得できる。
でもそれだけでなぜ読むことだけではなく、どんどん書けるようになるのか。
最近生徒たちと京都大学の入試国語の記述解答を楽しむことが多いが、2009年の国語出題に、ギリシア・ラテン古典語学者の柳沼重剛氏の文章があり、無駄なく気持ちよく意味の伝わる文章を書くには、古典名文の音読が推奨されると述べ、『平家物語』の一文を提示して、これが現代語に訳しても意味がないことを強調していた。
さて、このような文章を書く人は、実際に古典文の音読をしている人であろうから、その人がどのような文を書くのかもっと知りたいと思い、出典と思われる『語学者の散歩道』(研究者版)を取り寄せて読んでみると、これがなかなか面白い。古代ギリシア語、ラテン語、英語、仏語等あらゆる西洋言語に通暁し、そこにおける論理思考結果が明快にかつ面白く書かれているが、この文章は入っていなかった。
現代語を作っているのはその前の親の世代の言語環境である。その前は、さらにその前の前はと遡ると、日本語古典、つまりかつて最もよく音読されたと思われる文献に至る。
その最も源流にあると確認されるのが、『古事記』の元のカタカムナである。
東京都の教員採用倍率が1、1倍を切ったなら、そこに敢えて応募した者たちにこの音読法を教えれば、その結果、すべての子どもに日本語了解能力の基を届けることができる。日の丸君が代どころの騒ぎではない。
「日本人」とは共通して日本語を了解運用する人々の集団である。
それには日本語の元を了解する必要がある。
古文を訳して理解する?
そんな無駄なことはしない。
古文を読んでそのまま了解できる。
するとしかも文章をスラスラ書けるようになる。
そのメソッドがここにある。
学校教師も塾教師も、「教育者」こそ、まずこの単純なメソッドを取り入れるべきであると思うが、なぜわからないのか。
「謎」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?