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Serial experiments lainに囚われている

Serial experiments lain(以下lain)という作品に、ぼくはもう何年も囚われ続けている。

なんかもう、出会う前のことが思い出せないし、どうやって出会ったかも覚えていない。脅威の影響力である。

1998年にアニメが放送されて、その後ゲームも発売された。
ぼくは産まれておらず当然リアルタイムで見たわけでは無いので、当時の深夜アニメ独特のアングラな感じをその空気ごと味わったことはない。

ただ少なくとも、この作品に出会った時から、この作品に囚われているのだ。

lainは、当時では珍しいマルチメディア作品だった。
アニメ、ゲーム、そして雑誌の連載イラストや書籍など、様々な媒体で欠けたピースを埋めるように情報を保管していく。

ぼくが最初に触れたのはアニメだった。そこからずるずるとゲームの動画を見たり画集を手に入れて雑誌イラストを見たり、しまいにはハードを持っていないのにゲーム版lainを手に入れたりした。(後にクラブサイベリアというファンイベントで実機を見物することとなるまで、所持しているにも関わらず本物のエアプ勢だった。)

そもそもこの作品は、決して万人受けするものではない。あとぼくもだけど、たぶんこの作品を完璧に理解できるひとなんていないし、解説してみた!だとか、高邁な精神を掲げて説教臭く持論を垂れ流すなんてこと絶対にできない。

だから積極的に勧めることも、話すこともできない。でもハマる人にはハマる。そんな作品。SFとか心理学とか好きな人は、とくに。
今敏監督の作品(PERFECT BLUEやパプリカ等の監督さん)の独特の雰囲気や世界観が好きな方にも合うかも。

少しでもハマる人には今後ずっと心の隅に残る作品であると断言できる。
もう20年も前の作品であることで尻込みするようなら更に付け加える。この時代にこそ触れて欲しい作品である。

2020年以降、ひとつの流行病によってぼくたちはインターネットに適応することを余儀なくされた。
会議はリモートで行われ、イベントはバーチャルで行われる。
バーチャルYouTuberも人気を博し、ぼくたちもVメイドとして活動することができている。
電車の中では猫も杓子も画面を見つめ、誰かと連絡を取り続ける事ができて、家に帰ればスマート家電に話しかけ操作し、SNSを更新して。昔掲示板で呼び掛けあって発生した「電車の中で急にみんなが電子機器を見始めたら周りがビビるのではないか」という同時多発的な催し(本当になんの意味もない)も、今じゃ当たり前の光景だ。ビビるどころかそれが常である。

そんな中で、もし、もしね。文字だけでやり取りしていた人が、実はどこかで中身がAIになっていたり、ほかの人に入れ替わっていたとして、果たして気付くことができる?
誰かにその人だと認識され続けていれば、それは認識する側の中では変わっていないのと同じなんじゃないのかな。

自身の実在を証明することの難しさは見方によって変わる。デカルトは方法序説で疑いを持つ自身は揺るぎないと説いたが、しかし証明というものは他者に認識されてこそのものであると思う。たとえ己の中だけで証明が完了していたとして、それを他者が知覚できなければ広く通った証明にはならない。自他共に理解出来る物こそ証明である。


このあたり多分人によって考え方は違うと思うんだけど、この作品は実存の考え方が他者依存な気がするな。ぼくも人間の意識は他者が観測することによって意識足り得る派なので(?)割とすんなり入ってきたのですが、逆の考えをお持ちの方はそれはそれで面白いかもしれませんね。
ぼくは思考実験が大好きなので(これについてもいつか文章を書けたらいいなと思っています)なんやかんやとお喋りしたいな~。

ゲーム版とアニメ版でかなりまた雰囲気や時間軸が違ってくるのですが、全体を総合して言えるのはとにかくある種の思考実験的な命題を突きつけてくる作品だなあと思います。機会があれば是非触れて頂きたい作品。

今や誰しもオンラインである時代。通信機器をひとつも持っていない人が存在し得るのかというくらいに、いつでもどこでも誰とでも会話ができる。

〝──俺はどこにだって存在できるんだ。肉体がどこにあったって、意識だけはどこへでも飛ばせられる。〟

〝どこに居たって、人は繋がっているのよ。〟


当時から見たら白痴の妄言かもしれない。しかし20年の時を経た今見ると、フォン・ノイマンの予言的なひやりとしたものを感じる作品である。

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