あいまい日記 4 ─誰も人生を知らなくて、本当に良かった
人生一般について解明した人間は、この地球上のどこにもいない。歴史上にも一人もいない。勝手にそう確信している。極めて優れた人というのは、あくまで何かを“うまくやる”ことについて優れているのであって、それは特別なことや神秘的なことを知っていることを意味しない。哲学者は未だに死を解明してくれない。世界中を旅するとか、苦難の末に事業を成功させるとか、いわゆる「人生経験」を経験し尽くした人は、魅力的な自伝を書く以外のものすごい爪痕を世界に残したことはあるだろうか。いや、何か恨みや怒りをぶちまけているわけではない。よくわからないが、もしこの世に何か“本当に知るべきこと”があるとして、それがすでに誰かに知られてしまっているとしたら、なんだか生きる甲斐というものが土台から奪われてしまう気がしている。たぶん、幸いにして、誰もまだそれを知らないとしか思えないということを言いたい。それを知らないという意味では、すべての人が同じレベルにある。私の人間観の一面には、そんな思いが張りついている。自分なりに探求していくことがまだ許されている。真理へ到達するためのメソッドが完全に発明されてしまったら、私はこの世の勤勉な人々に絶対に追い付けない。だが“知るべきこと”はそういう性質のものではないはずだ。…んー、なんだかなぁ。これはお行儀よくに語ろうとしているな。“知るべきこと”と言ってもそれ自体なんの意味もない物言いになってしまっているが、ともかくそういう何かを真っ直ぐ信じているわけでもないようだ。もっとシンプルに言ってみよう。誰も人生を知らない。だから私は誰かを恐れなくて済む。これは一種の処世術だろうか。どこかのタイミングでこの人間観が根付いてからは、人との関わりに対して以前よりリラックスした構えになったのは確かだ。私が私なりに人間社会をやっていくための“護符”を一つ得たのだと思う。しかしその副作用だろうか、いや、もともとそういう性質だったのかもしれないが、人を尊敬するということが、どうにもよくわからないところがある。敬意を払っている人は何人もいるが、尊敬の念というものを確信したことはたぶんない。出会っていないだけだろうか。先に語った人間観は、どちらかといえば“諦め”の方角だ。そちらの方角から一つ価値あるものを持ち帰ることができたと思うが、今度は人について“信じる”方角に舵を切って目を凝らしてみたいという想いがある。誰かが読んでくれるともわからないが、こうして公開された場で文章を書くこともそのための一つだと言っていいはずだ。
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