THE YELLOW MONKEY JAM

THE YELLOW MONKEY JAM

吉井さんが発売を熱望し、ラジオでかけ続けてファンの大きな要望もあって発売された楽曲だと読んだか聴いたかした記憶があります。

なのでこの楽曲はTHE YELLOW MONKEYとファンとの絆の楽曲であると自分は捉えています。

『歌詞の「外国で飛行機が墜ちました〜」の部分が取り沙汰されることが多いが、吉井は重要なのはその後「こんな夜は逢いたくて〜また明日を待ってる」まで続くラインであると語っている[18]。また、このラインについて吉井は「ちょうどオウム真理教の地下鉄サリン事件とか、阪神・淡路大震災とかあって、子供を持つ身としては不安な世の中だったから、それも大きかった。『君に逢いたくて』というくだりは、当時、娘に向けて書いたんです。あまり家にいてやれなかったですし」と語っている。さらに、その部分は当初メロディーが作られておらず、本番にアドリブで歌われた。テイクワンの歌唱が採用されたが、最後の1フレーズで吉井が感極まって詰まってしまったため、そこだけ歌い直している[19]。』

(※wikipediaより引用。)

と書いてありますが『乗客に日本人はいませんでした いませんでした』の部分があまりにも衝撃的で誰もが聴いたら忘れられないフレーズだと思います。

当時のニュースキャスターの言葉の一部分を切り取って万人に一考させる破壊力が素晴らしい。

最初から最後までちゃんと歌詞を噛み砕いて噛み締めて聴いて欲しい名曲です。

ロッカバラードでありながら演奏も最初のキーボードからもう心に直接流れ込んで来る演奏もお見事。

ある種の日本の音楽の究極でもありながら、もちろん歴史に残る名曲だと誰もが思っている事でしょう。

wikipediaに発売の経緯が詳しく書いてあるので引用して載せておきます。

強い想いが重なって解き放たれた名曲は何度聞いてもたまらない名曲です。

『吉井はシングル候補として本曲をコロムビアのディレクター・宗清裕之に提案したものの、コロムビアの宣伝会議では脅し文句が並べ立てられ、「我々宣伝がここまで培ってきたものをぶち壊す気ですか」「この曲じゃあテレビに出られません」「バラードで勝負なんて早いですよ」と、発売は強く反対された[15]。この理由として、スマッシュヒットとなった8thシングル「太陽が燃えている」がキャッチーでポップかつハードロックな楽曲であったため、コロムビアの宣伝・営業、そしてマスコミによって同様の曲が望まれていた[15]。月刊誌『音楽と人』1996年2月号(前月上旬発売)はそのような営利を突き付けられている状況を逆手に取り、レコード会社が発売に反対する問題作というストーリーに仕立て上げたインタビューを表紙に掲載した[15]。この巻頭特集の中で『音楽と人』編集長市川哲史は、レコード会社やスタッフが現行路線を求めるのは分かるが日本のロックシーンと一線を画す「孤高のロック感が格好良い」このバンドに営利的方向性を持った「市場の論理」を武器として用いないでほしいと訴えた。

1996年1月12日に『TOUR'96 "FOR SEASON" at 日本武道館』で初披露されたものの[20]、吉井は演奏前のMCで発売が未定であることを説明していた。しかし、当時のプロモーション担当であった中原繁がこの曲を気に入り、中原は「これは代表曲になるよ。会社の上の人間がなんて言おうが、オレが絶対売ってやるよ」と、吉井に語り、バンドの所属事務所(上層部)に強く推したことで2月29日に発売が決定した[17]。

ラジオ番組『吉井和哉のオールナイトニッポン』は阪神・淡路大震災から1年経過した1996年1月17日に本曲を初オンエアし[* 3]、翌週以降もオンエアを続けた。

本作発売から8日後の3月8日に『ミュージックステーション』出演が決定したが、当初は4分の枠での演奏予定だった。しかし、吉井は曲が削られてしまうことから「絶対に出ない」と語っていたが、プロモーターである中原の熱心な交渉によって異例の5分枠を取ることに成功。アウトロ以外省略なし(歌詞の省略なし)で披露された[21]。』

(※wikipediaより引用。)

ありがとうございます!