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差別と、Black Lives Matterと、#と、真っ黒な画面と。

「差別されている」

今まで20年以上生きてきた中で、はっきりとそう感じたことは一度もない。だからか、事が起きてからでないと、誰かが命を落とすことでニュースにならないと、人種差別問題を意識することができないでいた。

今回のGeorge Floydさんの一件を巡って、色々と考えたことがある。情報収集はしつつ、本件に対する他の人の様々な意見に惑わされないうちに、自分の考えを整理して発信してみようと思った。

1)差別意識のリアリティ

人種に限らず、差別に通じることは世の中にゴロゴロ転がっている。

身近な人が差別にさらされていることを知って、その人のことを思い、守りたいと思って、初めて声をあげるというアクションに繋がる。自分にとってリアリティがないと、言葉にするというのは非常に勇気がいることだ。リアリティがないと、自分の言葉で誰かを傷つけてしまっているのではないか、的外れなことを言ってしまっているのではないか、と不安になる気持ちもある。

人種による差別意識を感じてこなかった人は(特に日本には)多いであろう。SNSを見ていると、差別意識を感じたことがないことに対して、何だか責められているような気分になる言葉にも出会う。

今回のGeorge Floydさんの事件を目にした時、自分の中で勝手に、黒人差別の反対運動を既に歴史化されたものとして捉えていたことに気づかされた。「そう簡単に歴史にされてたまるか。」アメリカでの抗議の様子をニュースで目にして、何だかそう言われた気がした。責められている気がするのは、決して「差別意識を感じたことがない」ということ自体ではなく「差別意識を感じたことがないことで、差別問題を勝手に他人事だと感じたり勝手に歴史化してしまう」ことなのだと、自戒も込めて考えながら、今この文章を書いている。

2)Black Lives MatterとAll Lives Matter

今回の一件で、Black Lives Matterに対して、All Lives Matterというカウンタームーブメントが起きている。今回のような状況において、「全ての人の命が重要である」という至極当たり前に思われている前提、それだけを声高に叫ぶ人は何だか信用できないし、恐らく何も考えていないと私は思ってしまうのだ。

今回のGeorge Floydさんの事件は、All Lives Matterという「当たり前に思われていること」が守られていないから起きたのである。

All Lives Matterという言葉だけを見れば、これは本当に守られるべきだし、正しい。しかし、All Lives Matterというカウンタームーブメントは現在の文脈から読み取ると、それはマイノリティ側に立たされている黒人の人たちの叫びを否定する、正しくない「行動」になるのである。

今回の件に限らず、世の中で起きている差別に対して、「全ての人の命が重要である」という正しい「言葉」を叫ぶことが、必ずしも正しい「行動」にはなるわけではない。もちろん、命が平等であることは大前提なわけだが、その言葉だけに頼ることは思考停止を生むのではないかと思う。残念ながら、世界はそうじゃないから差別がなくなっていないのであって。叫ぶだけじゃなくて、正しい「言葉」のもとには、もっと具体的な「行動」がないと、と思うわけである。

3)#と真っ黒な画面

ここ数日、私のインスタは#blacklivesmatterか#blackouttuesdayと真っ黒なタイルの画像で埋め尽くされている。違和感を感じるのは、ポストをした人の言葉がどこにも見当たらないことだ。アクションが形骸化しているのでは?と思ってしまう。今回の黒人差別の反対運動を大きなムーブメントとして捉えてもらうため、知るべき人に知らしめるために、数でとにかくアピールすること。これが無意味だとは思わないが、どうも心にささらない。真っ黒な画面と#をつけてポストすること、これってあなたがやらなくてもいいのでは?と思ってしまったりするわけである。

とはいえ、私も今まで何のアクションも起こしてこなかった。SNSで長文を書いて発信すること、まとめることが不得手なので、私はこうして「記録」として使っているnoteに書くというステップを踏ませてもらっている。今回の場合は、記録するだけではなく、発信することで整理をつけようと思った。そして発信することで、少しでも差別がなくなる世の中に繋いでいきたい。ただ叫ぶだけじゃなくて、今考えていることを拙い言葉でも発信してみること。出来事を具体的にしていくこと。そういう輪が広がればいいと思うのである。

#blacklivesmatter #georgefloyd




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