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終電発車15分前

子どもの頃、体調を崩して学校を休んだ日の唯一の楽しみは、父が買ってきてくれる舟形に乗っかって緑の紙に雑に包まれた『たこ焼き』だった。

きっと駅前の屋台で焼き上がるのを待って買ってきてくれたのだろう。『たこ焼き』は家に着いてもまだ十分に温かくて、少し湿った包み紙からは裏切りのないソースの匂いが早く開放して欲しいと窮屈そうに主張していた。

思えば、この『たこ焼き』が目的で必死に熱を下げようとしていた気がする。

薬を飲んでは布団の中に転がり込むものの、薬が効いている間は退屈でしかない。体調が戻らなければ『たこ焼き』が食べられない。

時折フトンを抜け出しては熱が下がらなかったことを考え、またいそいそとフトンに潜り込むのだ。

待ちに待った『たこ焼き』の匂いに誘われてフトンをバッと剥いで飛び出す。

包み紙を剥ぎ取ると、ソースをたっぷりと塗られて行儀よく並んだ『たこ焼き』がふわぁ~と伸びをする。落っことさないようにそっと一つを口に運ぶと、子どもの舌に丁度よい温度のたこ焼きが口蓋に押し潰されて口の中いっぱいにソースの味が広がる。

「おっ。よかったなぁ、明日は学校に行けよ!」

熱もすっかり下がった私に父が優しそうに微笑む時、『たこ焼き』には何か不思議な魔法の力があるのだと思ったものだ。



「申し訳ありません!」

そう言うと、仙台さんは池安課長のデスク前で姿勢を正し、深々と頭を下げた。やってしまった。ミスをしたのは仙台さんではなく私。



私、円谷かすみが配属されている電化製品メーカーの部品営業部門では、営業社員と営業事務社員がペアとなって数社の顧客を担当する。

私の相棒は仙台さん。34歳の既婚者で2歳の可愛い女の子の父親で「大阪生まれの仙台です」をトークの持ちネタにしている。ちょっぴりお腹も出始め、生え際も過疎化しつつある私の兄貴的存在。

「マルちゃ~ん、内線2番!」「マルちゃん、先週の集計出しといて」「マルちゃん、メシ行ってくるわ」と事あるごとにそう呼ぶものだからすっかり社内で定着してしまい、お陰で今では社外からもマルちゃん宛に電話が入る始末。

それでも、大勢の人に何かと気にかけてもらえるのが嬉しくて、仕事も依頼もお誘いも、飛んで来るもの全てを打ち返した。

頑張っている自分を認めて欲しかった。それ以上に嫌われるのが怖かった。

次第に家族や友人とも疎遠になり、仕事帰りのコンビニが唯一の安らぎの場所になった。

次第に顔も知識も広がり、自分が偉く大きくなったような気がして嬉しかった。何でも出来るんじゃないかとさえ思えてきた。

本当はもう一杯一杯だったのに……。

そしてついに、やらかした。

部品200ピースの発注入力時、「0」と「00」のテンキーを押し違えてしまったのだ。あまりにも初歩的なミス。伝票を確認すると20000ピースになっていた。

「見直すよね、フツウ」

隣の課の綾部女史が、嫌でも聞こえてしまうほど音声多重な独り言を言ったが、それよりも最悪なのは、私ではなく仙台さんが課長に怒られていることだった。

仙台さんは本当に申し訳なさそうに肩をうな垂れ、雨に打たれた捨て犬のような顔つきで課長から説教を受けている。そして、1時間近く経ってようやく向かいの席に戻ってきた。

「仙台さん、私のミスで本当に……」

自責の念に駆られながら仙台さんを見ると、彼は私にだけ見えるように顔を傾け、両目を寄せてべーっと舌を出した。

不謹慎にも沈んだ心が浮上する。情けなくて、ありがたくて、可笑しくて、咄嗟に目から溢れ出そうになる涙を必死に押し込めた。




そんなある日、A社と弊社の担当社員懇親会が行われた。案の定、私はお世話係。自分の席に着く間もなかったけれど、幸い、今日はいつもよりも早めにお開きとなりそう。

ホッとしている私の左肘を掴む仙台さん。

「マルちゃん、ちょっとついて来て!」

思いもよらなかった誘いに返事をする間もなく、夜の闇の中に強引に連れて行かれてしまった。



到着した場所は、宗右衛門町の脇道を数回入ったところにある小さなお店だった。今どき珍しい木製の引き戸をガラガラと開けると、そこにはレトロ感漂う別世界がひっそりと存在していた。引き戸もカウンターの長テーブルも長椅子も年季の入った濃い飴色に輝き、何よりも懐かしいこの匂い。

そうだ、ソースだ。色も匂いもソース一色の別世界は『たこ焼き屋』だった。

「まぁ、仙ちゃん、久しぶりやね。奥しか空いてへんねんけどええかな。あ、今さん、ちょっとそこ、横に詰めたげてくれる。ごめんね」

お多福顔のおかみさんは息継ぎをせずそう言うと、私たちを温かな笑顔で迎えてくれた。

仙台さんは慣れた様子でワイシャツの袖を捲し上げ、今さんらしき客に「すんません」と言いながら中腰のまま長椅子の一番奥の空席に座り、それに続いて急いで座ったら勢い余って肩と肩がぶつかった。

(よく考えたら仙台さんの横に、それも、こんなに近くに座ったことないな……)

学生時代はラグビー部だったと聞いたことがある。男らしい腕、突起した手首のくるぶしとゴツゴツとした指の骨。心臓がキュっと鳴る。

「はい、お待ちどうさん」

おかみさんの声で我に返ると、いつの間に注文したのか、目の前には色鮮やかな緑色の青海苔の上に鰹節が妖艶に舞い踊るアツアツの『たこ焼き』があった。

「さっき、ほとんど食べてなかったやろ。食べようや」

仙台さんは私を待たずに手を伸ばす。慌てて私も『たこ焼き』を一つ口に運んだ。

「あふっ」

カリカリの皮の中はふんわりなのにちゃんと火が通っていて、コリッとした蛸の身が舌と出会う。マヨネーズはあえて使わず、ダシの味を利かせてある。スンと海の香りのする新鮮な青海苔の下、自家製ソースに絡まった『たこ焼き』が顔を出す。

このソースがえも言われぬ滋味深さで、決して出しゃばらず、それでいて存在感があり、何よりも主役である『たこ焼き』が一番美味しい状態になるように脇役に徹している。

「親父が”葱たっぷり”で、おふくろが”紅しょうが入り”が好きでね。でも、結局、俺が好きになったのは全く別の『たこ焼き』やった。

何にでもチャレンジするのはいい事や。他人の意見も経験も栄養やスパイスになる。でも、それが全てじゃない。最終的に自分の守るべきものを大事に、自分だけの味を作り出すんや。

誰にでもウケる味なんか探さんでいいのとちゃうか。マルちゃんにしか出せん味を好きになってくれる人、ちゃんとおるから」

仙台さんの目元が柔らかな弧を描き、少し照れくさそうに自分の後頭部を探す袖元にはソースの染みがついていた。

「ところで、時間はええのん?」

そう言われてやっと、終電の存在を思い出した。

「あかん!終電発車まであと15分です!」

「それ、なんで早よ言わんか?」

「仙台さんこそ、早よ聞いてください」

「俺のせいかぃ!」

急いで勘定を済ませて駅へと走る。転ばないようにと繋がれた仙台さんの手から、彼の一部がドクドクと私の中に流れ込んでくる気がした。

すでに終電はスタンバイ済みで発車を待つのみ。

「ぎりぎりセーフ!じゃ、明日も元気に出てくるように!」

改札の手前で仙台さんが、私の頭に手を置いて髪の毛をワシャワシャと優しく乱した。仙台さんからソースの匂いがした。

「わかってますよ!おやすみなさい!」

改札を走り抜けながら振り返ると、髪の毛がふわりと鼻先を擽った。


仙台さんと同じ匂いがした。




(了)


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