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結局のところ、レシピなんて気にしないで

昔からずっと悩んでいることがある。

それは、料理レシピなんて必要ないのでないのではないかということ。


その昔、某メディアで料理コラムを連載していた時にはレシピを公開し、一時的だけれど、クックパッドのアカウントを持っていた時期もある。それが、ある事を境にレシピを公開するのが嫌になってしまった。



確か、仕事をしながらフードコーディネーターの勉強をしていた頃だった。クラスメートとコンビを組んで、スペイン家庭料理教室を開催した。

1グループは4-5人。全20名ぐらいだったと思う。事前に参加者の人数を確認し、材料、器材を準備する。基本的な調理手順にカラー写真を添えた配布用レシピもプリントアウト。準備万端で本番にのぞむ。

しかし、事件は起こる。

生徒さんである一人の女性が、プリントされたレシピを見るなり、確実に全員に聞こえる大きな独り言を放った。

「オリーブオイルの量、多い。油っこいのん、アカンねんわ、アタシ」

まぁ、そういう人もいるんだろうと、軽く聞きながそうとしたのが間違いだった。彼女はグループを仕切り始めた。

「これ、油半分でもいけるんちゃうん。ええよね、半分でも。アタシ、ダイエット中やしっ」

言うが早いか、用意された量の半分のオリーブオイルをフライパンに注いだ。あっけに取られているのか、遠慮しているのか、同じグループの人たちは黙認。講師としての経験の浅かった私も「分量はちゃんと守ってください」とも言えず、見て見ぬふりをしてしまったことを後になって後悔した。

この日のメインメニューは『鶏肉のチリンドロン煮』というもので、鶏肉と二種のピーマン、タマネギを炒め合わせてトマトと一緒に煮込み、白ワインで仕上げるというものだった。レシピとしては難しいものではない。

人それぞれ生まれてからの生活環境が違い『好みの味』というものを持っている。既に舌が違うのだ。同じ料理でも塩っ辛く感じたり、味気ないと感じたりする人がいる。シャキシャキとした歯ざわりを好む人もいれば、トロトロに蕩けるように煮込んだものを好む人がいるのは仕方ないことだ。

しかし、彼女はそれとはまた別のタイプだった。着地時の味の予測をしない。“何だかわかんないけど、とりあえず好きなようにやってみよう型”の女性だった。少なくとも”あの頃の私”には、ちょっと苦手なタイプだったのかもしれない。

グループの長となった彼女が”少量の”オリーブオイルで鶏肉と野菜を炒める。オイルの分量が少ないので焦げやすく、火を弱める必要があるので当然、火の通りは悪い。何とか手順に沿って調理を進め、白ワインを投入する。

「白ワイン、スキやねん。多めに入れてもいいかな?」

そう言うが早いか、白ワインの海がフライパンの中に広がっていった。

試食会が始まった。案の定、そのグループの料理は、白ワインの酸味が効き過ぎた野菜も半煮えの情けない出来栄えだった。そして、お姉さんは言い放ったのだ。

「何これ。マズッ。全然、美味しくないやん」


ショックだった。自分のレシピで味を伝えられないどころか、スペイン料理は美味しくないというイメージを植えつけてしまった。私は教えるべきではない。無駄なことはもうしないと誓った。

私も若かったから余裕がなかったこともある。自分の無力さが不甲斐なく、受け入れて貰えなかった気分になってしまった。その後、確かデザートもあったのだが何を作ったかも覚えていない。



同じように料理教室を開催した経験のある人にこの話をすると「そんなもんですよ。ま、お仕事と思うしかないですね」と軽くまとめられた。

そうなんだろうか。

スペインの味を伝えたいと思っているのに伝えられず、その上で、仕事だから収入になりさえすればいいと妥協するしかないのだろうか。

納得できなかった私は、それ以来、レシピを公開することはなくなり、クックパッドのアカウントも閉じてしまった。



去年の4月にnoteを始めた。

数こそ多くはないけれど、拙い表現力と指先で摘める程度の語彙力に鞭打ちながら、レシピエッセイを書いている。レシピに乗せて、食文化や人々の生活やその背景、味わい、食感、匂いを出来るだけ言語化して紹介している。

すると、有難いことに、このところ、レシピエッセイに登場するレシピをわざわざ再現して作ってくださる方々が多くなってきた。これが、予想外に気持ちいい。その昔、レシピ公開をやめた時とは大違いなのだ。

日本で手に入る材料で、作り手の好みやその時の条件に合わせて、私のレシピが新しいものに生まれ変わっていく。まるで、軽快な音楽に合わせて踊り出るかようで、『つくルンバ』と勝手に名付けた。そして、作り手はルンバを踊りながら料理を楽しむ『つくルンベーロ』

別の人が作れば、レシピは同じでも、私が作るものとは当然、異なる。たとえ私自身がスペインで作るのと全く同じように日本で作ったとしても、完全に同じ味わいにするのは難しい。食材の育つ環境が違い、食材そのものの味も違うのだから。

さらに、季節や場所、一緒に食べる人、空気、様々な要因が一つになって、やっと新しい『美味しい』が完成する。

初めての料理に挑戦する場合、材料、分量や手順ともにレシピに忠実に作る人もいるだろうし、調理経験のある人や感のいい人なら、初めからダイレクトにオリジナルのレシピを展開する。

それは、素晴らしい能力であり、同時に、元になる料理を味わうことなく作ってしまうのだから、全く違う世界の食べ物になる危険性もふまえている。

だからこそ、別の形で料理の味わいを伝える必要がある。きっと、私の場合、それが私が言葉にして書き出す世界なのだろう。

料理を教えるっていうのはレシピを教えるだけじゃない。言ってしまえば、レシピなんて教えなくなっていい。肝心なのは、その中にある『料理の素』のようなものを手渡してあげることなんだ。

何だ、そうなのか。

25年間もスペインで生活をしてみて、漸く、今まで心の内側にひっかっていた小さな塊がストンと落ちた。

数日前にnoterさんの一人から、既にあるレシピにストーリーを付けたとしたら、それは、オリジナルレシピになると思うか、という質問を受けた。私はこう答えた。

「例えば、卵焼きのように単純な料理は、それぞれのストーリーがあってこそオリジナルレシピになるのであって、レシピそのものよりもむしろ、ストーリーの方が大切だと思います」

私が言葉に乗せて届けた料理が、いろんな方々の生活の中に浸透していく。スペインの風が見えないスパイスとなって料理に味わいを増す。

今なら思える。

あの時、料理教室でやりたい放題だった彼女は、彼女なりに私のレシピを受け取ったまでのこと。私は材料の分量や、作り方以前に伝えるべきものがあった。

彼女だって、料理に興味があるからこそ参加したのだろうし、もしかしたら、何度もチャレンジするうちに彼女の好みの味を見つけ、今日も誰かに腕をふるっているのかもしれない。そして、願わくば、今でも料理が好きであってほしいと思う。

これからも、エッセイは書きたい。でも、細かい材料の分量なんかはあえて書かないかもしれない。いずれにしても、レシピは公開した時点で私の手から飛び立っていく。それでもいい。私が伝えたいのはスパイスだから。

全く知らない誰かが私からのスパイスを使い、自分や自分が愛する人に料理をする。考えただけでワクワクする。

何だか、幸せになる魔法の粉を振りまいている妖精になったような気がする。

ごめんなさい。

妖精は言いすぎです。



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