あなたとまた手を繋ぐ
久しぶりの外食。子どもたちが成人してからというもの、夫婦二人だけでの食事が多くなってきた。
「いつものでええか」
『イカの鉄板焼き』これが夫の“いつもの”。スペインバルでは比較的どこにでもあって、調理が簡単だからこそ素材の良さやシェフの腕前がよく分かる一品。この料理にお店のオリジナル料理やら本日のお薦め品が追加されていく。
「久しぶりやね、二人で来るのん」
「やっと二人で来れるようになったなぁ、5人前は高うついてしゃあない」
みんなが集まる日には、パエリアだ、バーベキューだと人一倍張り切るくせに、わざと「仕事が増える」と小言を言う。素直じゃない。隠しても知っている。夫にとって子どもたちは人生最大の宝だってこと。時折、子どもたちが小さな頃の話を目を細めてする子煩悩な父親は、私や子どもの前では倹約家で毒舌の頑固親父を演じる。
「子どもは親の真似をするんやから、ちゃんとしてよ」と何度言ったことか。その度に、「俺のは悪い例としてみればいい。良い例と悪い例があるほうが分かりやすいやろ」と屁理屈をならべる。キレると感情に任せて爆走し、後から反省して借りてきた猫のようになるのはどこの誰だ。24時間善人を演じる仮面の重さに気づかない。気づきたくないのだ。ズルイ奴。
私が子育てにあまり苦労を感じなかったのは、たぶん、夫のお世話が大変だったから。おまけに、年々、面倒くさい度がアップしている気がする。正直なところ疲れる。
香ばしい香りと共に『イカの鉄板焼き』が運ばれてくる。強火でサッと焼いたイカに、パセリの色鮮やかなエメラルドグリーンのソース。
あの日もそうだった。
留学時代の親友がルームシェアしていたアパートの同居人に食事に誘われた。9歳も年上の彼は、素敵だとか、思わず見てしまうとかでは100%ない、いわゆる「タイプでない人」だった。かといって、生理的に受け付けないとか、態度が気に入らないとかいうこともなく「当たり障りのない普通の人」だった。
約束の時間より数分、遅れてきた彼は、ごく普通のジーンズに少しばかりヨレッとしたシャツ。私はというと、朝から着っぱなしのTシャツにスニーカー。お互いに、服装をテーマにお世辞を言うネタすら見つからないくらいの普段着で、気合も味気も色気も、何の『気』もないゴハンの日。
一緒に行ったその店は、早い時間だというのに既に満席。早速、シャンピニオンやらムール貝やらに続いて、最後に『イカの鉄板焼き』が運ばれてきた。
「乾杯」と合わせたグラスがゴチンと鳴る。冷たいビールで喉を濡らし、二人でほぼ同時にイカを一切れ口に運んだ時だった。
「冷めてるね……」
私の返事を待つ間もなく、彼はウェイターを呼んだ。
「あなたの責任ではないのは分かってます。でも、注文したものと違うようです。申し訳ないけれど、注文どおり出来立てのをお願いしてもいいですか」
出来立ての状態で運ばれてくるべき料理が、残念ながら何らかの理由で冷めた状態でテーブルに運ばれてくることがある。注文が重なったり、サービスの手が足りずやむを得ない場合があるのも知っている。けれど、客として、本当はどうするべきなんだろう。
「あの店はまともに料理も出せない最低な店だ」と罵倒し、悪評を撒き散らす人。「こんなもの食べられるか!」とキレる人もあれば、料理を突返す人。突返しこそしないが、手もつけない人と対応は人様々。
私はどうだろうか……。
私は争いが嫌いだ。きっと、そのまま黙って食べる。代金も払い、(もう、来なけりゃいい)と自分自身を納得させる。彼は違った。ウェイターを責めるわけでもなく、客としての自分の権利を真っ直ぐに主張する姿は眩しいくらいに美しかった。
思い出した。
そう、あの瞬間、彼に恋をした。ただ、私の本能が絶対に手放してはいけないと命じた。私にない部分を持っている人。
今、目の前にあの時の彼がいる。結婚式も挙げていないし、結婚指輪もない。私の誕生日を覚えるのに15年もかかった。ロマンチックの欠片もない夫と、来年、結婚25周年記念を向かえる。すっかり白髪が増えて、毎日笑い合うことも無くなってしまった二人となって。
店の外は、秋の夜長らしく肌寒いのに、まだ夏の温かさを僅かに引きずっている。
少し前を歩く夫の荒れてゴツゴツした手に触れてみる。一瞬ピクリと動いた指先が、私の艶のない皺だらけの指にゆっくりと絡まった。
あなたとまた手を繋ぐ。
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