私の知らない私
若者たるや、お腹を空かせて帰ってくるだろうからと、親が料理を沢山作って待っている日には帰って来ず、冷蔵庫が空っぽで何もない日に限って帰ってくるもの。突然、友達や彼女がオマケについてくる事もある。
この日もそう。翌日の朝一番に、息子に空港まで送ってもらう予定がある金曜日の夜。前夜は息子たちも早めに帰宅してみんなで夕食をと思っている……のは親だけ。
晩ごはん4人前と思い込んでいる母は、ワイン蒸しにするムール貝を2キロ購入。せっせと殻の汚れをコソゲ取るお掃除も終盤にさしかかるも、一向に息子たちの帰る気配なし。
ここでやっと嫌な予感がする。どうも、老化と共に予感も感度が低下するらしい。もっと早くピンとこないもんだろうか。遅ればせながら、電話をかけてみる。
「明日の朝?知ってるよ。だから、今日は彼女と晩ごはんを食べたら早めに帰るよ」
そんなの、これっぽっちも聞いていない。
次男にいたっては、
「ぼくも」
と三文字で片付けられた。
しかし、ここで怒ったところで仕方ない。初めてでもなければ最後でもない。洗車の直後に雨に降られるようなものだ。問題は2キロもあるムール貝をどう始末するか。
中年夫婦二人で2キロはかなりキツイ。それに、ムール貝ばっかりじゃ嫌だ。一緒に買ったメカジキも、さっと焼いてパセリのグリーンソースで食べたいんだ。今日は張り込んで冷凍でない『生』のを買ったんだから。
アサリは冷凍できても、ムール貝はそうはいかない。とりあえずワイン蒸しにしてから冷凍するなり方法を考えることになった。
2キロのムール貝を大鍋に入れる。ざく切りレモンにニンニクは丸ごと、軽く胡椒を振ってオイルをタラリ。最後に白ワインを回してかけて強火にかける。蓋をしたまま5分もするとムール貝の花が咲き、鍋の中から溢れんばかりに美味しさをアピールする。
大きな身をスープと一緒に口の中にチュルリと啜り込む。ムール貝は山程ある。おっと。貝を蒸すのにワインを使ったもんだから、肝心の食事用ワインが足りなくなってしまった。
2本目のワインに陽気に突入したあたりで思いつく。そうだ、ムール貝をエスカベチェ(南蛮漬け)にする手があった。夫も、それはナイスな提案だと、二人で耐熱容器にムール貝の身だけを詰め始めた。
ただ、エスカベチェは幾度となく作ってはいても、ムール貝では作ったことがない。普通の脳で考えると、鯖やアジでエスカベチェを作る要領で、蒸しあがったムール貝を作った液に漬けるだけで美味しいはず。
しかし、もう脳は溶けてヘロヘロ。なのに、何故か脳の一部だけが動いていて、グーグルでレシピ検索をしている。あーして、こうーして、あれを入れて、これを入れて……。
ここで私はチャージ切れ。画面がプツーンという音と共に落ちた。
◇◇
いやいやいやいや、50歳を越してもたまにやってしまうのだな、これが。夫と二人でワインを二本、空にしてしまった。(正確には二本弱というのはただの言い訳)
夫いわく、二人してそのままソファーにダイブし、息子たちの帰宅にも気づかなかったらしい。かろうじて真夜中に目を覚ました夫が、息子たちがまだ帰宅していないと焦り、部屋を見ると二人とも熟睡していたとか。
そんなことより、翌朝、もっと凄いことが起きていた。私が目を覚ますと、こんなものが出来ていたのだ。
紛れもないムール貝のエスカベチェ!!!
誰が一体。夫も私と一緒に撃沈していたはず。何故、ここにコレがある。誰かが勝手にキッチンに入り込んだのか。
自分じゃないとシラを切る夫。私だって作ってない。断じて。しかし、コレは確かに目の前で、オレンジ色の悩ましい容姿を見せつけている。
ようやく判明した。恐ろしいことに、犯人はもう一人の私だった。ゾンビ状態の私が無意識で作ったらしい。まだ信じられない。どっきりカメラ特番は年末だ。全く覚えていない、本当に。
そして、運命の時。
プリプリのムール貝を食べてみる。
お、ローレルの葉が入っている!
レモンの味が爽やか!
黒粒胡椒も程よく効いている!
明らかに、普段、魚を使って作るエスカベチェとは違う!
最大のポイントはというと、
何を入れ、どうやって作ったか覚えていない。
キィィ悔しい。美味しいだけになお悔しすぎる。酔拳によって生み出された幻の一品のレシピが、どこにもメモされていないというのでは洒落にもならない。
また一つ学んだ。
飲みながら作る時にもメモくらい用意しておくこと。
ビデオ出演はさすがに恥ずかしい。
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