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なんでも手を出す建築学生 「『時間とテクノロジー』 佐々木俊尚 を読む」


 この記事は読書記録、アウトプット、備忘録の場として筆者が読み終えた本について関心を持った場所や考えたことを、つまり、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくったものです。

(あまり読まれることを意識せずに書いた記事であり、のちの読者である自分のための記事という性格が大きいため、本記事の読了後に何か得られるという保証は到底できません。そのことを認識した上で読み進めていただけると助かります。)

 本屋にて、なんとなく「哲学」の書棚を見ていたとき、佐々木俊尚さんの「時間とテクノロジー」という本に目に留まった。「哲学」の書籍と分類されていながら深層学習やVR・ARなどの最近話題になっているテクノロジーを主題としているこの本になんとなく魅力を感じて購入。

 結構分厚い本だなぁとも思いながら読み始めたが、テクノロジーについてはかなり易しい形で噛み砕いて表現されていることもあってか、説明されていることについてはほとんどひっかかりなく読み進めることができた。

 ただ、改めて現代のテクノロジーによって作られる世界、そして未来を佐々木さんの目線から捉え直すことによって、知識の薄い自分にとってはできない世界の捉え方、考え方に触れることができ、自分にとってはかなり刺激的なものであった。その点では読み進める途中途中でその考え方に立ち止まることが多かった(読み進める中で頻繁に心にいい意味でひっかかった)とも言える。

 本を読むことの面白さは、一時的にではあるかもしれないがその人の考え方や思考回路に没入することができ自分にない他者の目線から世界を捉えることができることだと改めて感じる。そして、読書の価値というのは、それを終えた後には、他者であるその本の筆者の思考が大なり小なりどこかで必ず自分の思考へ影響を及ぼすということだと思う。

 以下、本の内容と自分の思考の備忘録として。(本記事は私自身の本の解釈の仕方であり、この本の筆者の言わんとするところ、思考の進め方とは異なる可能性がある。少なくとも本の「あらすじ」としては機能しないと思うのでご了承いただきたい。)

第一章 鮮明な過去はつねに改変され、郷愁は消える

第二章 過去は「物語」を作ってきた

 クラウドの登場による「過去」の価値や存在の揺らぎについて。

 「過去」が「データ」として記憶されることによって、それは「本や記憶」のように時間と共に摩耗していくものではなくなる。このことが今まで人間が取り扱っていた「過去」いうものの性質を変えてしまう。

 この章では、クラウドという技術によっての人間社会の統合の仕方の変化についての捉え方に始まり、「過去」と「未来」の存在についての議論や、「過去の摩耗」の価値などについての考え方が提示されている。

 本の内容として根幹になる部分ではないが、個人的には、研究者ジェインズの論、

有史以前の人々は自己意識をもたず、二分心と彼が名づけた神の声によって行動していた

という「二分心」による「神の存在」の捉え方は自分にとって新しいものであると同時に説得され得るものであり、捉え方の一つとして自分の記憶に留めておきたいと思った。

第三章 「因果の物語」から「機械の物語」へ

 この章では筆者のいう「因果の物語」、「確率の物語」、「べきの物語」、「機械の物語」について語られる。

 人間が最も理解でき、身をもって実感がしやすい、因果関係によって世界の全てが起こっていると捉える「因果の物語」に対して、人間が研究などにより徐々に気づいてきた、世界に存在するそれ以外の物語。

 特にAI・深層学習と言われるものの発達によってその存在が浮き上がってきた「機械の物語」。これは人間の持つ「因果の物語」とは全く異なるもので人間には理解し難いものであるが、これから先、「因果の世界」に偏らずにその世界に身を預けるか否かが進む方向性を大きくかえるという考え方。

 この世の中の全てが因果では説明できないことを多数の他の「物語」との比較や研究実験結果などから実感させられる章であった。現在人間が「因果の世界」にどうしても偏ってしまう一方で「機械の世界」がすぐそこの未来に待ち構えている、もはや世界に普及しつつあることなど深く考えさせられる。

第四章 「自由」という未来の終焉

 自由が正義として捉えられがちな現在であるが、そこに疑問を投げかけるような章である。

 映画「マトリックス」の世界が現実のものになり得る現在において、人間にとって善となるものが必ずしも現在我々が価値があると認識しているものと合致しないということ。

 「豊かで安定した生活」か「自由」かの選択を通して「機械の物語」に身を任せるか否かを考えさせられる。

 人間は自分に理由が理解できない結論(「機械の物語」が出した結論)に身を任せることに恐怖を感じるが、その先の確実性が保証されたものであれば身を任せる選択をするのかもしれない。ここはかなり哲学的な話だなと感じる。

第五章 摩擦・空間・偏在のテクノロジー

 技術が新たな世界への「なめらかな没入」を目指す一方で、摩擦を好む人々。

 これは逆行した二つだと捉えることが普通であるが、共存させることも可能である。

 それは技術と身体が一体化して滑らかに繋がる一方で、この世の中の摩擦を人間が感じることができるようなシステムにすること。これが人間がこの世の中につなぎ止められている実感を持つための重要な要素なのだという。

 また、人間の潜在的な力である空間認識力に対してのVR,AR,MRなどの空間の捉え方、人間の能力を引き出すものとしての役割。

 これから世の中にコンピュータが「どこにでもいて、どこにもいない」状態になっていくなかでの時間軸の変化など。

 それぞれの技術のこれから向かっていくべき方向性を示唆している章だと感じた。


第六章 新しい人間哲学の時代に

  オートポイエーシスについて。

 全体のまとめとして、
 「機械と人間や仮想と現実といった区別にはもはや意味がない」「「生」に目的がない」ということをオートポイエーシスを引き合いに出して説明している。

 考え方は人それぞれではあるが、この本のまとめとして人間がこれからどのように生きていくのか、その意味について考える際に一つの大きな指標になるであろう理論が提示されている。


終わり。


<最後に、独り言>

「建築家は文学の学を理解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである。」

 自分がよく話に出すヴィトルヴィウスの言葉であるが、これは「建築家は多方向の分野に精通しておくことが理想だ」という意味として私は捉えているが、

 現代社会において、この「建築家」の知識的な面での適応性が一番高いのは「新聞記者・編集者」なのではないかなと思うことがある。この本の作者もそう感じさせる理由のひとつである。

 彼らは、多方向の分野についての情報を取り扱い、アウトプットとしてそれを民衆に提示する仕事をしている。それぞれの分野の最前線を走っているであろう人たちと話ができる機会を多く持つことができるのもこの職業の特権であると思う。そして何よりも彼らはその取材などで得た情報や知識を自分の編集によって、自分の形にしてアウトプットを行う。これはある程度その分野の基本的な流れや知識を蓄えていないと為せない技である。また、そのアウトプットが知識を深めているはずである。

(身近にその職業の人がいないので上記の記述はあくまで想像でしかない。)

 彼らはその仕事をしていく中で自然と多方面の分野に精通した人になるのではないかな。と思う。

 多方面の分野の知識をもった上で彼らが「建築家」としての役割を担ったらどのような思考で建築を作り上げていくのか、思考を覗いてみたくなる。
(もちろん、多方面の分野の知識があるだけで建築ができるわけではないことは承知している。建築家としての技術と彼らの知識が揃うことが前提である。)


 多方面の知識を持つことで思考が深まることに関して。

 最先端の技術、またはこれからの未来の方向性を語る上では歴史、過去の流れから未来を見据えることの重要性を感じた。

 歴史の流れ、人類の思考から考察することで、より深い未来への考察と提示ができるのだと思う。

 自分はどちらかというとテクノロジー的なものに興味をもっている身であるが、一見関係なさそうな歴史の事実が、テクノロジーを語る上でもそれを深いものにする大きな要因になること。やはり、ひとつの知見を深めるためにはそのことだけを深く考えるのではなく、一見関係なさそうなものについての知識もつけることで、目的とするものの深みは何倍にも大きくなる。


 

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