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あまりにも衝撃的だった。
 
それは
 
以前、ふらりと入った美術館で、
 
 
 
横山大観師の一文と出会った。
 
 
 
「富士の名画というものは、昔からあまりない。
 
 
 それは形ばかりうつすからだ。
 
 
 富士の形だけなら子供でも描ける。
 
 
 
 富士を描くということは、
 
 富士にうつる自分の心を描くことだ。
 
 
 心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。
 
 
 それは気品であり、気はくである。
 
 
 富士を描くということは、
 
 つまり己を描くことである。
 
 
 
 己が貧しければ そこに描かれた 富士も貧しい。
 
 
 富士を描くには理想をもって描かなければならぬ。
 
 
 私の富士も決して名画とは思わぬが、しかし、
 
 描くかぎり、全身全霊をうちこんで描いている」

 
 
 
(横山大観「私の富士観」朝日新聞 昭和29年5月6日付)

 
 
  
 
私は、この文章に、画家の【気迫】を感じた。
 
 
 
この文章では
富士を描くにあたっての心境が書かれているが、
 
実際は、富士に限らず、
 
人物画であっても静物であっても、
 
同じだ。
 
 
どの絵にも共通する画家の思い。
 
 
 
つまり、
 
 
絵とは自分を描くことなのだ。
 
 
 
自分の心を描くことだ。
 
 
内面が貧しかったり、醜ければ、
そのような作品になる。
 
内面が充実し高められたものであれば、
作品も同様となる。
 
 
 
それが、
 
気品であり、気迫だ。
  
 
 
そして、
 
 
【全身全霊】で描いていると言い切る横山大観師に
 
画家として人間としての自負をみた。
 
 
 
 
 
わたしは、まだまだ赤子のようなものだ。

 
  
 
もっともっと
 
先ず、人間として
 
ビジョンアーティストとして
 
画家として
 
 
【全身全霊で生きる】
 
 
修行を積み重ねようと決意を新たにした。
 
 
 

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