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何のことだろう?
 
 
 
デとガって。
 
 
 
 
 
当時、加藤氏は大学教授だった。
 
 
 
 
 
授業が終わり、
 
 
生徒と共に
 
昼食を食べようということになった。
 
 
 
 
加藤氏は、立場上、生徒に、
 
 
「今日の昼食は、俺のおごりだ。
 
 さあ遠慮しないで何でも食べなさい!」
 
 
 
 
生徒
 
「僕はカレーライス【が】、いいです」
 
「私はピラフ【が】、いいなあ」
 
 
 
 
すると、
 
 
 
その中のひとりの生徒は
 
 
「僕は親子どんぶり【で】、いいです」と、
 
 
なにげなしに言った。
 
 
 
 
加藤氏は、カッときた。
 
「【で】いいとは何だ!なんという言い方だ!」
 
 
 
その生徒に烈火のごとく怒った。
 
 
 
そして、怒った理由を説明した。
 
 
その理由を要約すると、
 
 
加藤氏は、
 
当然ながら、
 
 
その生徒が親子どんぶりを
頼んだことに怒ったのではない。
 
 
 
 
普通からすれば、何を注文しようと、
どうでもいいことなのかも知れない。
 
 
 
 
だが、
 
日常の些細な、
 
どうでもいいことの中に、
 
 
 
特に口から出る言葉の中に、
 
【その人の本質】が出るのだ。
 
 
 

 
つまり、
 
加藤氏が、その生徒に伝えたかったのは
 
 
【主体的に生きる】
 
 
ことの重要性だ。
 
 
 
 
これを怒ったふりをして
 
伝えたかったのだ。
 
 
 
 
【で、いい】と【が、いい】は、
 
 
話し手にとっては、
 
 
似ているような感じの
 
日常で使う言葉だが、
 
 
 
その話しを聞いている受け手にとっては、
 
 
大きくニュアンスが違う。
 
 
 
【で、いい】は、
 
 
【何でもいい。どうでもいい、どっちでもいい】という
 
ニュアンスがあり、
 
 
一種のなげやりな
 
 
【自分が選ぶのも人に委ねる】ような、
 
 
 
自分の意志が感じられない、
 
 
あくまでも【受け身】の言葉なのだ。
 
 
 
 
 
 
反対に
 
 
 
【が、いい】のほうは、
 
【自分が選んでいる】、【自分の意志で】、
 
 
 
 
つまり
 
 
【主体性を持っている】
 
 
 
という意志を感じる。
 
 
 
 
 
われわれが使っている言葉は、
 
 
普段あまり意識して
 
使っているものではないが、
 
 
 
わたしは、
 
この文章を読んだ当時、
 
かなりのインパクトを受けた。
 
 
 
 
「そうか!こんなところに、
 
 
 その人の主体的な【生きる姿勢】が、
 
 
 あらわれるのか!」と。
 
 
 
 
 
高校生ぐらいの時、
 
 
私が読んだ、
 
社会学者の加藤秀俊氏のエッセイに、
 
以上のような話しがあった。
 
 
 
 
手元に、
 
もうその書籍がないので、記憶の範囲だが。
 
 
 
 
それ以来、
 
自分では【デとガ】を意識して使うようになった。
 
 
 
 
 
 
最近おもう。
 
 
 
 
物を選ぶのも
 
「人とのつきあい」も、
 
同じかも知れないなあと。
 
 
 
 
 
やはり、
 
 
1番好きなものを選びたい。1番好きな人を選びたい。
 
 
  
2番目以降は、自分の本心が納得しない。満足しない。
 
 
結果的に長続きしないものだ。
 
 
 
 
 
「この人【で】、いい」
 
よりも
 
 
わたしは
 
「この人【が】いい」を選びたい。

 
 
 
 
実は、
 
 
【本当にやりたいこと】を見つけるヒントは
 
このアタリにあるのだ。
  
 
   

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