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だけど、いい人でいてしまう自分


朝日新聞の「悩みのるつぼ」コーナーで、
四六時中 いい人でいる必要はない、と知った。

相談者ほどではないが、
やはり いい人でなかった自分に
後悔や罪悪感を抱きがちだった。

そんなわたしにとって
上野さんのこの一言は、
まるで教皇から贖宥状をもらった市民のよう。

そう、この言葉は免罪符であるのだ。


ただ、いつでも使っていいものではないことは
わかっている。
しかし、いい人になるべきか迷うことは
いつだってあるのだ。


誰しもあるだろう、
相手の急な依頼に合わせて
慌てて納期を前倒しにすること。

相手も、こちらが苦労を被ることは承知の上で
どうしても、とお願いする。

そういうことは、こちらもあるだろうし
お互いさまだとわかること。

しかし、前倒しにしたところで
評価が上がったり、給料が上がることはない。
また、律儀な人で無ければ
意外と忘れてしまうほどの些細なことなのだ。

そうはいっても、注意しなければならない。
この時、簡単に断ると
「お願いしても聞き入れてくれなかった」
というレッテルを貼られるのだ。

稀なケースだが、いつまでも根に持つ人もいる。



わたしは、急な依頼をされた時
そうやって先のことまで考えてしまう。

自分の忙しさは天秤にかけることすらせず、
人から思われることばかり考えてしまうのだ。

きっと、他人の顔色を伺う人間に
いつのまにかなっていたのだ。


人間だし、仕事なので他にも業務はある。
そこに 急な依頼をねじ込むだけの技量がない、
そう感じるのであれば同僚に回せばいいのだ。

そういう判断すらできなくなっていた。


「こういう突発的な業務は
  経験を重ねればうまくさばける」

上司はこう言った。

確かにそうだ。
経験を重ねれば、業務にかかる時間は短縮され
処世術も身につくだろう。

ただ、それだけでは
根本的な改善にはならないだろう。
なぜなら、“いい人” という鎧を
脱ぎ去ったのではないからだ。
それは鎧を脱がずとも
技量でごまかしただけのこと。


自分自身でも、痛烈に感じる。
“いい人”の鎧は簡単に脱げない。

それは、“いい人”であることによって
人生の大半を過ごしてしまったから。

“いい人”は社会で必要とされやすく、
一個人の個性として捉えてもらいやすい。
他に個性が無いのでは?と不安に思う時には
大切な味方になってきたのだ。

生きがいや存在価値、というものにも近い。


それらを捨てる覚悟で、
“いい人”という鎧と向き合わない限り
大小さまざな我慢をしてしまうのだ。


だから、わたしは自分に問いかける。

「いい人であろうとしてない?」

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