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噓日記 2/28 ルーブ・ゴールドバーグ・マシンとキャプテン

俺はルーブ・ゴールドバーグ・マシンが好きだ。
ルーブ・ゴールドバーグ・マシンとはよく言うところのピタゴラ装置のこと。
ビー玉なんかをカタカタ転がす無意味で連鎖的な工数を増やして、最終的に旗を立てるなんかのゴールを実行するというあの装置。
あれ、ずっと見ていられる。
俺が小二だったら卒業するまで見てる。
小二じゃなくてよかった。
あれの何が好きかと言うと、主役になる奴がどんどん切り替わっていくところ。
装置の主役だと思っていた始動のビー玉が、突然道の一部となり次のビー玉を運ぶ礎になる、なんてギミックがピタゴラ装置には組み込まれていることが多い。
あれはいい。
あ、そこで変わるのか、という感じで裏切られるのがいい。
何故か俺たちは始動のビー玉に知らず知らずのうちに感情移入してしまう。
装置の動画を見つめても、視界の中央には常にそのビー玉。
それが突然入れ替わる裏切りと衝撃。
そして、いつの間にかその次のビー玉へと感情移入がシームレスに行われる。
この感覚、何処かで覚えたことはないだろうか。
そう、故・ちばあきお先生の不朽の名作『キャプテン』にその影を垣間見ることができる。
キャプテンとは初代キャプテン谷口くんからストーリーが始まり、次々と代替わりしていくキャプテンという視点から描かれる墨谷二中野球部のサーガである。
それがピタゴラ装置の主役が切り替わっていく様とよく似ている。
最初のうちは谷口くんをメインに追っていくが、そこから代替わりして丸井、その戦いを見守ると次のキャプテンのイガラシ、そしてキャプテンを締め括ったキャラクターの近藤、といった具合に追っていくキャラクターが変わっていく。
キャプテンではその代替わりというイベントを大きく、センセーショナルに扱わない。
野球部という存在が常に抱えていく三年という限られた時間をさも当然と受け入れたあっさりとした幕引きであり、継続的に続いていく部活としての体制を否が応でも受け入れさせられる。
そんなちょっとした気持ちの整理がつかない間の引っ掛かりと、それでも物語は続いていくというスピードに、俺はピタゴラ装置のビー玉を重ねてしまうのだ。
一つ前のビー玉を思い返す時がふと訪れることがあっても、装置はどんどん展開していく、そしてそれがまた違うビー玉に。
そういう儚さがピタゴラ装置にはあるのだ。
過ぎていく時とその過程。
そんで、キャプテンの近藤、誰が好きなん?
俺、アイツだけはキャプテンとして認めてない。

どりゃあ!