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噓日記 11/25 文理の話

かねてから疑問に思っていたことがある。
それはウェブ上で扱われる文系理系の括り。
ウェブ記事なんかを読んでみると『文系大学生の〜』や『理系の考える〜』のような括り方で多くのコンテンツが配信されている。
しかし、思うのだが文系理系といつまで拘るのだろうか。
高校二年から文理選択をして、大学までいったとしてもたかだか6年、院までいってもプラスで2年3年だ。
その人生における数年のマインドをいつまでも引き摺り続けるのはおかしな話だと思う。
一歩社会に出てみると文系も文系もそれこそ文理選択以前に社会に出た方も居て、それが社会全体でごちゃまぜになっている。
そのいい大人の他人たちが文理がどうのと言っている姿を見たことがあるだろうか。
私はない。
もちろんそういった学んできたことをストレートに仕事にしている方たちはそのマインドのまま生きるだろうからここでは論じない。
槍玉に挙げたいのはそれ以外の全て。
私が言いたいのは文系だった過去も理系だった過去もアイデンティティにはなり得ないぞ、ということ。
その道を極めんとする方々ではなく、ただそのレールに一度乗った程度の一般人がそれを矜持がごとくひけらかして生きるのはちゃんちゃらおかしな笑える話に思えてしまう。
文系の人間がずっと言語や経済や教育なんかについて考えてノートやガリ版に文字を刻みながら飲み会で知り合った人間に短歌を送って返歌を待つわけでもない。
理系の人間がずっと数学や物理や科学なんかについて考えてコンピュータや電卓を叩きながら毛玉だらけのネルシャツを着て母親が買ってきたチノパンを履いているわけでもない。
皆それぞれが丁度いい塩梅の大人になっていくのだ。
いつまでもいつまでも何かそういった括りに囚われるということは、自身を構成する要素を他に何も持ち合わせていないのではないかとさえ思ってしまう。
そういった文系理系という分かりやすい括りは、今まで何処にも所属していなかった人間にはさぞ分かりやすく心地の良いものだろう。
その姿は初めて遊びに誘ってもらった子どものように私には映る。
分かりやすく仲間の印が欲しかったのか、というふうに。
アイデンティティは選ぶものではなく、選ばれるものでもなく、自らで見出していくものなのだ。
なんて偉そうに書き記してきたが、私自身は高校時代に理系コースを選択し、大学から文転した。
私って文系なの?
理系なの?
そういう文理の括りのコンテンツから私は爪弾きにあっている。
私も誘ってよ、って話。
初めて遊びに誘うときみたいに。

どりゃあ!