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噓日記 1/14 弱者と娯楽

最近の娯楽作品は弱者を慰める作品が増えている、という言説を目にした。
確かに最近の作品ではその傾向が顕著だと感じてしまうほど、目に入る作品では弱者に向けた配慮が為されている。
自助の努力もなくただ場当たり的に生きてそれが全てうまくいく、なんて作品が増えたのもそんな消費者に向けた作品作りによるものなのかもしれない。
能力に気付かれていないだけ、本当の潜在能力は凄いものがあった、周りの人間の性格が悪かった。
そんな公的な言い訳によって構成される主人公が肯定されていく様は弱者にとって心地が良いものなのだろう。
だが、それで良いのだろうか。
昔の娯楽作品では、能力が劣るものは努力によって他者と並ぶというプロセスが見られた。
現在の作品ではそのプロセス自体が省かれて、もともと力を持っていたのに気付かれなかった可哀想な主人公という体裁が多くみられる。
読者である私の立場からはっきり言ってしまうなら、努力もしない主人公が何かしら認められていくというのは気味が悪くて仕方がない。
努力もできない人間が他者と同じ、もしくはそれ以上の評価を得ようとしている、そしてそれを賞賛する読者がいるという現実にリアリティーがないようにさえ思える。
努力もできない、周りから能力に気付かれない、そんな人間は基本的に何処にいても同じ評価を受ける。
それがちょっと生きる場所が変わったくらいで評価が一変するのならば、緩い世界で生きているんだなと断じてしまいたい。
人間とは相応な立ち位置に収まるものである、そう考えてしまう私の方が現在ではロマンチストになってしまうのかもしれない。
力及ばないならば腹を切ろう、そんな考えで生きている人間はもう少ないのだろう。
私は自分が役に立てなくなったならば腹を切って消え去ろうという覚悟を持って生きている。
それが経済活動において私という人間ができる最大の自己表現であるから。
そういった作品の読者たちは、ありのままの自分を肯定されたいという意識が強いのではないだろうか。
ただ生きているだけで肯定される、そんな母親からの愛情のような対価のない愛に飢えているような、そんな印象を抱く。
人間社会に飛び出せばそうはいかない、対価を差し出して何かを得るという原則を知るのだ。
そういった作品の読者は意外にも四十代くらいの者たちが多いと聞く。
争いに敗れた者たちは、自らを慰めて生きていくという現実の厳しさを改めて実感する。

どりゃあ!