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噓日記 10/19 夏の残滓

この時期になると毎年のように夏が少しだけ恋しくなる。
私にとっては春夏秋冬で夏は一番過ごしにくく、順位をつけるのなら最下位なのは幼い頃から変わらないのだが、いつもそんな夏の気配が消えた頃にその残滓が少しだけ惜しくなってしまうのだ。
夏はいつの時代もエモーショナルとノスタルジックを端的に表す季節だ。
汗が肌を伝う感覚、蝉の声、縁側であたる生暖かい風、消えた花火の残した香り、鮮やかな草花の色、木漏れ日が揺れる土の温度。
夏はその全てを五感で感じさせてくれる。
そして季節は進んで秋になり、その柔らかな伝達力が伝えない優しさを我々に与えた時に、やっと夏が与えてくれていた膨大な情報量に気づくのだ。
秋が読書の秋、行楽の秋、スポーツの秋、食欲の秋なんて呼ばれ方をするのはもちろん過ごしやすくなったから取り組めるという意図もあるだろう。
だが私は、秋とは人間が自ら受け取りに行かない限り与えてくれない季節なのだと考えている。
だからこうして人々は読書や行楽、スポーツ、食事で夏の間に当たり前に与えられてきた情報量を補うのだ。
しかし、そこで出てくるのが私のような無気力人間。
読書をするにも最初の一歩が踏み出せず、行楽に勤しめるほど暇もなく、スポーツをする素養もなく、食にもさして興味がない。
そんな人間はそこでその情報量の差をエモーションとノスタルジーへの羨望で埋めなければならない。
忌み嫌っていようとも、夏は何故か全てが良かったと思い込んでいなければその他の人間との間に開いた差に気付いてしまう。
だから、残暑も何もなくなった今頃になって、そのぽっかり開いた胸の隙間を心地よいものだと自分を騙す。
こんな時期、私は毎年夏休みを繰り返すゲームをする。
予定調和に過ぎ去っていく、それでいて大きなイベントに自らが関わっていく、そんなゲームで私をまた夏の表層に置き去りにしていく。
自らが空虚な無気力であることをそんな永遠の夏休みは忘れさせてくれるのだ。
だからそれに全身を投げ出して甘えて、夏の一番甘い汁だけ啜る。
こういう私のような人間はきっとこの世に多くいるだろう。
無気力なくせに置いていかれることをプライドが許さず、しかしその隙間を埋めるための努力をすることもなく。
ただ、ひたすらに過去のエモーショナルさとノスタルジックを啜ることだけでどうにかして無理やり今を生きているふりをしている。
私も、そして彼らも、まだあの夏に囚われている。
誰もが体験して、誰もが体験していない、あの理想の夏に。

どりゃあ!