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噓日記 9/26 しない挨拶、ごきげんよう

俺にはしたことがない挨拶がある。
俺どころかほとんどの人間がしたことがない挨拶かもしれない。
そして今後もすることがない挨拶。
それは「ごきげんよう」だ。
ちょっと女子校すぎる。
カトリック系の女子校じゃないとごきげんようなんて言わないし、言ってても多分俺は許せない。
でもピッタピタの修道服を着たシスターにはごきげんようって言われたい。
俺はごきげんようなんて小堺一機の口からしか聞いたことがないのに。
この世にはシスターからごきげんようと言われる人間と小堺一機からごきげんようと言われる人間の2種類が存在する。
俺は後者だ。
そんでもってハイソすぎる。
お互いがにこやかにごきげんようと言い合う仲、それってちょっと上流階級すぎないだろうか。
普通、朝に出会って一番にごきげんようなんて言えないだろう。
ご機嫌よくお過ごしですか? なんて聞く必要がないのだから。
他人の機嫌なんて知ったこっちゃないし、相手の機嫌が悪い時にはもう煽っているとしか思えない。
上流社会には不機嫌という感情が存在しないからこんな挨拶が許されるのだ。
我々のような下流も下流、上流社会の残飯が流れてくる川下に居を構える一般人にはご機嫌という感情さえないのだからその乖離が浮き彫りになる。
一般人にはトイレットペーパーの切り方が気に食わないという理由だけでちゃんと怒れる奴しかいない。
一族を討たれたくらい怒る。
トイレットペーパーは皆が気を使わなければならないからこそ、その安定は下流の治安維持装置としても用いられている。
トイレットペーパーが荒れた時、それはゴングと同じだ。
話をごきげんように戻そう。
俺が仮に明日、朝出会う人たちにごきけんようなんて言おうものなら、どうかしたんだろうと思われるだけだ。
顔を見れば一瞬で分かるくらいどうかしているのだ。
千里眼千里眼。
めっそうもない。
俺が挨拶するのは俺と同じく下流の人間。
基本的には飯を食えていないため不機嫌だ。
そんな奴らはいつだって税について怒っている。
一揆目前の機運だけが現代社会に残っている。
そんな奴にごきげんようなんて言ったが最後戦いの火蓋は切られるのだ。
ごきげんなわけがないから。
口を開かせたが最後、家族から職場、政治について悪口雑言の限りを尽くし、最終的には泣き喚く。
何かしらの嘆願書を作成するところまで行き着く。
ごきげんようは禁じられた呪文だ。
俺はこの挨拶を封じる戦いに挑む。
挑むのは勿論女子校。
戦いは止められない。
賽は投げられたのだ。
小堺一機だけに。

どりゃあ!