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嘘日記 3/24 公園にて

納得と理解は異なる感情だ。
今日、私は納得はしたものの、理解には及ばないような、そんな感情を覚えた。
それは私が放課後、クラスメイトと共に公園での児戯に興じようとした折に起こった。
クラスメイトの中でもとりわけやんちゃで、あばれはっちゃくというあだ名を欲しいままにするケン坊が、公園に着いた瞬間に砂場に向かってビニール製の安価そうなボロボロのランドセルを投げ捨て高らかに宣言した。
ドロケイをやるぞ! と。
ドロケイとは言わばチーム戦の鬼ごっこである。
泥棒と警察、二つの陣営に分かれ、それぞれが協力しあって逃げ仰る、もしくは捕まえ切るまで続く。
通常の鬼ごっことは異なり、捕まった泥棒は牢屋というエリアに収監されるルールがある。
収監中のプレイヤーは逃亡中のドロボウ陣営のプレイヤーにタッチしてもらうことで脱獄が可能となり、再びゲームに参加できる。
ここで生まれるのがいかに牢屋を攻めるか、もしくは守護できるか、という駆け引きであり強制的に生まれる人数差がシームレスに入れ替わっていく面白さがこのゲームの肝だ。
私が通う小学校では他に娯楽らしい娯楽がないため、私を含めほぼ全ての男子生徒が休憩時間のほとんどをこのゲームに費やしている。
さて、話を戻す。
高らかに宣言されたゲームの開始。
しかし、ここで友人の一人が声を上げた。
ドロケイって、ケイドロのこと? と。
全員の時間が止まる。
かくいう私も実はこのゲームを普段はケイドロと呼称しており、ドロケイと呼ばれる場合があるとは理解しつつもそのネーミングに対して並々ならぬ気持ち悪さを感じてきていたのだ。
ケン坊はなぜかこの指摘に対して、誤りを指摘されたかのような顔をして、急いでケイドロと言い直していた。
その後、ドロケイ改めケイドロに興じたのだが皆どこか心ここに在らずといった雰囲気で、普段のように片腕を脱臼した猿ような奇声を上げることはついぞなかった。
ここで、このゲームの呼称について考える。
ドロケイと呼称する人はこのゲームに置いて、泥棒を主体としている。
ドロボウが逃げることでそれを追うケイサツという役割が生まれゲームが成立する、と考えているのだろう。
ケイドロと呼称する人はおそらくその反対。
ケイサツが追うことでそれからドロボウは逃げる必要が生まれゲームが成立する、と考えているのだろう。
互いがゲームの主体を違うもので捉えている時、同じゲームを指す言葉であってもその真の意図は異なっているのではないだろうか。
ドロケイという呼称に一定の納得は出来た。
しかし、理解にはまだ遠い。
ちなみにケン坊は私からよくアクエリアンエイジのカードを盗むので裏で私は彼を泥棒と呼んでいる。
彼の父も会社の金を横領したと噂され、近所では盗人と呼ばれている。
また彼の母のことを私の母はなぜか泥棒猫と呼んでいる。
彼は泥棒家系、ドロケイなのかもね。

どりゃあ!