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嘘日記 3/10 一輪挿し

透明なアクリルの一輪挿しを買った。
私は、私以外の何かがそこに存在するという実感がただ欲しかったのだ。
いい歳をして結婚もせず、なんて自己評価をするのはもはや時代錯誤なのかもしれないが、独り身の寝屋のもの寂しさを誤魔化すには花ぐらいが丁度いいだろう。
一輪挿しはとりあえずベッドサイドのナイトテーブルに置いてみた。
部屋の中に異物が生まれたような違和感はあるが直に慣れるだろう。
さてどんな花を挿そうか、そう考える時間は私の生活に潤いという心地よい湿り気を与える。
ネットショッピングでこの場所に相応しい花の正解を私の中で確信し、いざ注文しようとした時、胸がチクリと痛むような錯覚がした。
注文を確定しようにも、その胸を突くような鋭い靄が私の指を止める。
カートに追加した茶色いダリアはついに決済完了画面を迎えることがなく、私はゆっくりとスマートフォンの電源をスリープモードにした。
学生時分に酔った勢いで買った100円均一のサボテンをものの数日で枯らしてしまった罪悪感など、とうの昔にほろ苦い思い出として消してしまったと思っていたがその残滓は私の心奥にこびり付いていたようだ。
私に命はまだ早いのかもしれない。
私が結婚しないのも、花さえ買えないのも、きっとどこか私の手中で命が消えてしまう可能性を否定したいからなのだろう。
ナイトテーブルの一輪挿しを手に取って、考える。
一輪挿しは花が挿されてはじめて一輪挿しと呼べるんじゃないだろうか。
では、花さえ買えない私の買ったこのアクリルの塊は今なんと呼称すればいいだろう。
きっと今はただ役立たずな小さな立体。
一輪挿しをただのアクリルの立体に貶めたの間違いなく私だ。
思えば一輪挿しで一般的な材質といえばきっとガラスや陶器だろう。
なぜか私は知らず知らずのうちに壊れにくいアクリル製の一輪挿しを選んでいた。
そこで納得した。
私は命も、モノも私の手中で壊れてほしくないのだ。
どうか私のいないどこかで壊れて欲しいのだ。
一息小さな納得が口から溢れると、胸にかかった靄が幾分晴れた気がする。
ナイトテーブルに一輪挿しを戻す。
ベッドに腰掛け、部屋を見渡す。
空虚な部屋だ。
双眸から温かな涙がこぼれ落ちた。
皮肉なことに手中で何も壊したくない私は、たった一つ、心だけは自分で壊してしまえたのだ。


どりゃあ!