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ヴァージンVS過去・現在・未来 32~星空サイクリングへ~


~「コズミック・サイクラー」から「星空サイクリング」へ 2~

「星空サイクリング」 1982年10月25日発売

1982年お盆休みの終わりに学芸大学前の我家から池尻大橋のポリドールまでママチャリで移動している間に、この時点のヴァージンVSが置かれている状況を説明しなければなりません。 
82年初頭、RCサクセションがキティレコードからロンドンレコードへ移籍。その移籍第一弾が坂本教授と忌野清志郎氏とのコラボ「い・け・な・いルージュマジック」大ヒット!!
ついこの間の出来事のような気がするのに、すでに2人ともこの世にいないなんて、合掌。 

この移籍は所属事務所「りぼん」とレコード会社「キティ」との確執が表面化してのこと。
RCとキティとの契約の終了時期を見計らって表面化させたのでしょう。
同じ事務所、レコード会社であったヴァージンVSが火の粉をかぶらないわけがない。
「りぼん」のO社長は「キティ」の多賀社長へ、VSはキティへ「返す」と言ったらしい。
「返す」ということは、元々キティのもんだったのね。確かに森魚ちゃんの抱えていた諸事情も多賀社長が肩代わりしてくれたし。(後にA児氏の印税から返済) 
このような動きの少し前、まだ81年度中、「サントワマミー」が3枚目のシングルとして発売されることに決定。

3枚目のシングル「サントワマミー」
1982年映画「ダイヤモンドは傷つかない」にも使用された

決定前後、私は「りぼん」のマネージャーA氏に呼び出され、「サントワマミー」がシングルで本当に良いのか?と詰め寄られたが、もちろんこれで良いとしか答えようがない。
良いも悪いも、私にはシングルカットを決める権限などみじんも無い。
それに対しA氏はそれならプロダクションとして、「サントワマミー」のプロモーションンはできないとのこと。
多分私から反対意見を引き出したかったのだろうが、不調に終わる。
反対すればVSもRCともども「キティ」から「りぼん」に引き上げる作戦だったのかも。
そのあと、私は「プロモーションはできない」という言葉に憤り、確か一升瓶だったかを買ってメリィさんちに行った覚えがある。
私があの時「いや~、そうやね違う曲にした方が良い、方向変えましょう、根回ししますわ。」あるいは「あれはレコード会社が勝手に決めたので、バンドの意志ではない」などと言ったらどうなっていたのやら。
今になって思えば結構重要な場面だったようです。
マネージャーA氏は「りぼん」社長のO氏から言われて私を呼び出したと言っていたので。
 
そして所属事務所が「りぼん」から「キティアーティスト」へ
RCは「りぼん」、VSは「キティ」
→同格のように並べるのは気恥ずかしいが
 
なので「りぼん」所有の並木橋スタジオJは使えなくなりました。
それからの練習は代々木の首都高近くのリハスタジオ、池袋ヤマハ東ショップ、渋谷エピキュラス、ポリドール地下のリハスタを転々と。
代々木のリハスタでは「安全地帯」と交互に使っていました。
そのころ「安全地帯」は陽水氏のバックバンド。
ソウル透氏もドラム教室に使っていたな。
そしてマネージャーは北海道出身のN氏に代わりました。
既にキティは渋谷小林ビルから池尻大橋のポリドールに引っ越して来ており、大家さんのポリドールを乗っ取る勢い。なのでポリドールへ呼び出されたというわけです。
結構私は人知れず色々と呼び出されていました。
これがまた「久保田が勝手にやった」という誤解を生む要因になったのでしょう。
バンドと事務所、レコード会社との板挟み、インターフェースの役割だったのかな。
 
その日ポリドールに到着した私を待っていたのは、マネージャーN氏とチーフマネージャーのH氏、ディレクターのH氏だったと思う。

このチーフマネージャーのH氏は元「ずうとるび」のマネージャーで、メリィさんは過去に「ずうとるび」のバックをやっていた関係上よく知っていました。
しかし、メリィさんが「ずうとるび」のバックを辞めたいと申し出た時、H氏は「辞めるんだったら、今後音楽業界では仕事ができないようにしてやる」と仰ったとか。
今なら完全にアウト!!
でも当時はこんなのは当たり前で、私も京都で田舎芝居やってるとき、東京に移住するのは嫌だと言ったら、某氏から「それならどこからもレコード出せないようにしてやる」と脅されました・・・
そんなわけでメリィさんはH氏がいるのでキティアーティストに所属することに抵抗があったようですが、当のH氏はそんなことは忘れているのか、忘れたふりなのか、「よっ!メリィさん、よろしく」みたいなノリで全く問題はありませんでした。

そんな方々から依頼されたのは・・・(次に続く)

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