神聖かまってちゃんと高校生の私

(2021.11.11の下書き)
私が神聖かまってちゃんを知って今月で4年と2ヶ月、好きになって2年と4ヶ月になる。2019年7月30日、私は神聖かまってちゃんが大好きになったんだ。忘れもしない。私が人生で受けた一番強い衝撃は、神聖かまってちゃんのライブを初めてYouTubeで見た時のものかもしれない。

私は熱しやすく冷めやすい性格で、何かにハマっても長くて半年しか持たない。好きなものが増えていくだけで、かつて好きだったものも好きなのだけれど、一つへの熱は去っていく。
でもしんじられないことに、神聖かまってちゃんへの熱は、現在進行形で2年8ヶ月も続いている!
神聖かまってちゃんといえば、辛い感情を赤裸々に歌う(病んでいるの一言で片付けることは言語道断であることは言わずもがな、です)曲が多いこともあって、ファンのなかにも辛い気持ちを抱えている方が多いのも事実なのだろうと思う。

でも私は、正直神聖かまってちゃんの曲で歌われるなかで一番暗い感情に共感できたことはおそらく無い。そこまでの絶望を、経験したことがないからだろう。私はこれまでの人生で絶望を経験していない。だからこそ恐ろしくなってしまうことも、またあるのだけれど。それはきっと恵まれた悩みだ。

どうして死にたいと本気で思ったことがないのに、死にたい季節を聴いて泣いてしまうんだろう。ゆーれいになりたいと思ったこともない、学校に行きたくないと泣き叫んだこともない。どうして。
神聖かまってちゃんには、切なくも明るい、泣き腫らした目で夕暮れ空を見上げるような曲もたくさんある。
私はきっと、かまってちゃんのそういう曲に感情が付随していくのだろうと思った。「死にたいな、天使が落ちる」より、「少し寂しいからやってみるよここからさ」。
私がかまってちゃんを好きな理由はそれだけじゃない。数え切れないほどある。

例えば私は、二次元で描かれるようなあの怖いほど透明な夏が好きだ。何処にもないのに、何処かに存在していて欲しいと願ってしまう残酷に美しい夏。とても涼しい。
それか、少年が夏休み、田んぼの周りを駆け回る蒸し暑い夏。それらをの子の心は記憶として持っていて、それらを知らないはずの私にも欠片を見せてくれる。夕方と明け方が好き。
じゃあ、それ以外の、絶望を歌った曲に泣いてしまうのはどうしてだろう?
なんだか言語化したくない気もする。言葉にした途端すべては形を変え、本質を失うから。神聖かまってちゃんは私の唯一無二で、どんなに言葉を尽くしても、ちゃちに感じてしまうくらいただ大好きだから。

神聖かまってちゃんは、特に初期、感情表現が突き抜けている。疾風のように吹き荒れる強い感情。激情とでもいうのか。
「誰もいない教室じゃみんなは死んだと勝手に決めつけて」。
今でこそ違くても、中学の頃感じていた疎外感や、クラスメイトに馬鹿にされている気がする、大声で話している明るい人たちが怖い、私の方を見て笑われた  そういう気持ちの悲しい破片がパラパラと出てきて、確かにあったことを思い出させる。

神聖かまってちゃんへの膨大な愛、ライブに行きたい衝動を全て抑えて勉強した受験生を経て、高校生になった。

高校生になってから1年間はコロナ禍もあってだろうけれど、学校の友達との関わり方がわからなくなってきて、表面上はみんなと楽しく関わる中、ここに私が本当の心で話したいと思える人はいないと思って苦しかった。中学の頃は大好きな友人に恵まれすぎてしまった。音楽も、恋愛も、勉強も、将来のことも何もかも話せる親友がいて、大好きな先生から沢山学んで、だから高校に入ってから「こんなもんなのか?」と思ってしまった。

その悶々とした状況に耐えかねて、人生で初めて授業をさぼって中学の頃の親友とカラオケに行った。だけど、その頃から私を取り巻く状況は動き始めていた。好きな人が出来た。その人は初めて私が高校で心を開くに値すると思えた人だった。
バイトなんてさぼっちゃえばいいじゃんって言われた。その時の彼の言葉の雰囲気をよく覚えている。
その頃、Twitterの趣味垢を始めて、神聖かまってちゃん界隈に入った。学校はつまらなくて、Twitterの方が楽しかったし界隈でできた何人かの友達は今でもたまに遊ぶ仲良しだ。
二年生になって所属していた軽音楽部でのバンド活動が活発化して、私はようやく学校を楽しいと思えるようになった。安心した。ライブをやった時に、私の名前を書いた可愛いボードを作って応援してくれた友達がいて、そのボードには神聖かまってちゃんのロゴをいれてくれていた。嬉しかった。
バンドの仲間といる時は、理屈抜きで楽しいと思えた。神聖かまってちゃん演奏しようよ!!って何回言っても多数決で優里とかback numberに負けるけど。
心を明かせる人は、やっぱり中学の友達と、バイトなんてサボっちゃえよって言った彼と、神聖かまってちゃん界隈で出会えた一人の人だけなのかもしれない。
でも高校が楽しくなるにつれて憂いたり嘆く心のうちを話す必要性も忘れてきた。
高校には神聖かまってちゃんが好きな人が意外といる。大森靖子が好きな人もいるし、派手で人気者の子達も、元々ボカロ厨とかだった人が多い。
中学の頃は自分の好きを誇示したら引かれたし、距離を置かれた。
高校では自分を受け入れてもらえている実感がある。みんな自分を持っていて、好きなものを好きと言う才能くらいしかないような私を沢山の人が認めてくれた。個性的で魅力的であればあるほど、あぶれ者扱いするのではなく、尊敬し合う文化がある学校なのだ。

でも、そこで神聖かまってちゃんを好きだと言う人たちにもわかってたまるかっていう感情、あまり関わりたくない感情みたいなものはある。それはやっぱり、かまってちゃん界隈にいても、高校にいても、一人でかまってちゃんの音楽をひたすら聴いていた中学生の頃の私がいるからだと思う。


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