つれづれ 202007

ここのところ、twitterで話題になっている漫画「同人女シリーズ」がありますが、その作品群そのものでなく、それを読んだ人たちの反応が興味深いな、と思うので、私もここに少し覚え書きを残します。
しょうじき、作品とはそれほど関係があることを書いてはいないです。呼び水にして考えたことだ、という程度。ついでに言えば特にまとまりのある文章でもないので、伝わるかははなはだ怪しい。

最近ファフナーを履修しているので、私のコミュニケーションに対する考え(指針、あるいは信条に似たもの)を知っていると、もしかしたら感想がいっそう面白く読んでもらえるかもしれないな、ということは踏まえています。

他人を神にすること

twitterで私のツイートを継続して見ている方はご存じかもしれませんが、私はオタクとして「王様」を拗らせています。これは地位としての王ではなく、在り方として王であるキャラクターに心を惹かれがちです(このあたりは本題ではないので省きますが、気になる方はtwitterでフォローしていただけると、そのうちのたうちまわっている姿が見れると思います)。
一方で、人間であるキャラクターを神にまつりあげるのが嫌いです。あくまでも「人」として扱いたいから、というのが理由です。神は人ではないものですから。とはいえ、王と神がしばしば混同されがちである、ということは知っています。たとえ作品において王として描かれているキャラクターでも、受け手が神としてとらえることはある。
ただ、これを書いているのは王と神は違うものと考える人だ、と思っていただければそれで大丈夫です。

創作について考えること

現実の人間は本人がいて、本人の意思があります。創作には作者はいますが、キャラクターには本人の自由意思はありません。描かれたもののなかにしか存在しない。だからこそ、受け手側が想像したあとでそれを解釈として持つという余地があります。存在していない部分は受け手に任されている。

コミュニケーションについて思うこと

自分を基準とする、というのは、自分の意思を持つものとして当然のこと。ただし、他人も同じであるということを忘れてはいけない。他人の基準は私ではない。他人は他人という個であって、私という個とは異なる。
誰かに共感することはある。ただし、それはその人を理解したことにはならない。よくもわるくも、かなしくもよろこばしくも、他人は他人でしかない。前提として、言葉をどれだけ交わそうとも、他人を全て理解することなど到底できない。ひとつになることはできない。しかし、だからこそ、コミュニケーションを諦めてはいけない……こともある(どうしても相容れないものからは離れたほうが早いけれど)。それで伝わるものがある以上は、伝えなければいけないこともある。
序で触れた漫画に、通称おけパと呼ばれているキャラクターがいますが、「自分は現実でおけパの立ち位置にいる(あるいは、おけパと同じ振る舞いをしている)」というツイートや記事が散見されます。
しょうじきいって、こわい。
対象が創作上の人物であろうと現実の人物であろうと、他人と自分を同一視するというのはかなり危うい行いだと思う。他人が自分でない以上は、他人の考えていること・感じていることは想像の域を出せないのにも関わらず、同じだと言えてしまう人がこわい(たとえ多少似たところがあっても何も同じではないが!?)。
自分の視点の話をその誰かの話としてする、「憑依」とか言われるようなもの。自分にその誰かが憑依しているかのように話すこと。今回の場合は、その人たちはおけパをおろしているかのように話している。その人たちの話すことを読んでも、実際はおけパのことが理解できるわけではない。何故ならそれはおけパが語っているわけではないから。何か納得できることがあるとしたら、それは自分ではない他人の視点だから、見えなかったものが見えたことになのではないかと思う。

twitterにも書いたように誰かと自分をくっつけて考える代表的な言葉は「自分がされて嫌なことをするな」だと思うが、「私は嫌じゃないから相手にそれをしてもいい」になってしまうことがある。それは結局、相手について考えていないがゆえの無理解になってしまうのではないか? 他人の全てを理解できないという前提があったとしても、相手が何を思っているかを考えて判断をした結果ではない。何しろ試みてすらいないのだから。
「自分はされて嫌じゃないけど、相手もそうだとは限らないから想像し続ける必要がある(これは勿論、自分がされて嫌だけど、の場合もある)」「聞けそうなことであれば聞いて対応する」あたりが、誠実な落としどころなんじゃないか……と、個人的には思っている。コミュニケーションをとらずに相手がわかってくれると思い込むのも、けっこう傲慢な話なので(だからこそ「普通」とか「一般的に」とか「常識的に」とかを頻繁に使うこともこわいなと思うし、それにこだわる人も苦手だ)。
悲しいことがあった人に強い共感を示して、代弁するようにものを言う人も危ない。たとえば「自分もそうだったから」というのは、その悲しい人に本当に寄り添った気持ちかはわからない。ただ、聞きだせないこと(状況として、あるいはその人の心境を慮ってかなどには関わらず)には、やっぱり想像して対応した行動を考えてするしかないけれど(そうして誰かに考えてもらえることで救われるものもあるから)。

眠くなったのでここまで!

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