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コミュ二ケーションの奇跡性

前座

みなさんどうもこんにちは。一条閃です。更新がおくれてます。ごめんなさい。今回もとりとめなく書いていきたいと思います。


最近少しずつ元気を取り戻してきて、日常を取り戻しつつあります。元気はまだまだ出ないけど、授業にも不足なく出れるようになってきました。よかったよかった。

コミュニケーションができるってどういうこと?

この前、就活の応募要項の求める人材に「コミュニケーションができる人」と書かれていました。コミュニケーションってなんだろうなって思いました。

コミュニケーションを日本語では意思疎通と書くことが多いです。もしくはカタカナ表記かな。相手の気持ちをわかって自分の気持ちを通わせ合うのってすごく難しいことだと思うんですよね。まず相手の気持ちや状況、背景を推測しながら相手に合わせて相手の話を聞いたり、自分の話をするのって結構疲れる。みんな当たり前にしてることの一つではあるけど自覚していることよりも大変なことをしているんじゃないかと。

人の考えを理解したり、人のことをわかるのってすごく難しいものです。私自身も人にいろんなことを見せないようにして生きているし、自分の全てを曝け出しているわけでもないのに、人にかけられた言葉や行動で私は傷つくし怒ったりします。

情報はそのまま力になるから、知っているだけで価値だし、無知で人を無意識に傷つけることもある。それはいいとか悪いとか倫理観や正義感に基づくものではなく、本能的に感情的にそう思ってしまうのです。

コミュニケーション不足問題

ネット上でも日常でも、「人に対しての遠慮」や「人それぞれの地雷」が違うのに、「自分の物差し」で他人を図って、勝手に適合させて行動してしまって、図られた側が傷ついたり困ったりしているようなことはよくあると思います。このような問題の悪かったこととしても「コミュニケーション不足」とまとめられることはしばしばです。

でもこれって多分「意思疎通不足」ではなくてもっと初歩の「相手のことをわかろうとする興味があるかないか」が問題じゃないかって思うんですよね。相手のことを解りたいっていう興味があれば、「相手と自分が違う生き物だ」ってことくらいは気づくと思う(思いたい)んです。

興味関心っていうと、小学生の時の通信簿の興味関心意欲態度の欄を思い出しますね。あれめちゃくちゃ曖昧な尺度だし先生どうやってなんの基準で決めてるんだろうなってその当時から思っていたんですよね。本当のところどうなのかはいまでもよくわかりません。でもそんな曖昧でふわふわしているなんの根拠も裏付けもないものがあったかなかったかがこのコミュニケーション不足問題の原因と書くのもいささか違うような気がします。

なんとなくけつろん

私は「魅せ(見せ)方」が悪い場合が多いんじゃないかって思います。自分にはこういう気持ちがあることを相手に魅せる、見せる、伝える、ことができていたら多分トラブルの形までは進まないんじゃないかなと。

人と分かりあうことはとても難しいし、疲れることです。でも、あなたのことを解りたいという姿勢を相手に伝えることもできるし分かりあうための努力をすることもできる。その努力をすることこそがコミュニケーションができるってことな気がする。

最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。これからも頑張るのでよければジュース一本おごってもらえませんか?

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