ルディメンタリー・コンプレックス

息子が2歳半になった。

生まれてから今まで、子を持つ親になった人間なら
必ず多くの人が感じられるであろう本能的な生命の尊厳、愛玩的な
愛くるしい感蝕を、僕も類に漏れず存分に享受し、堪能してきた。

こどもというのは目に見えることや見えないこと、使える五感、六感、すべてをアンテナにし全力で生きているから、あっという間にありとあらゆることを吸収し、宇宙のスピードで日々目まぐるしく育っていく。自分にも眠っているであろう”人間の可能性”というやつを目の前でフィードバックされている感覚の繰り返しの毎日は、こういった生命としての急激な成長カーブをとうにわすれた僕たち大人にとって劇的であり、まさに瞬間瞬間のすべてが尊い体験に思えるものだ。

普段から苦慮しているとおり、「愛」およびそれに準ずるものが
どういった類のもので なんなのか、まったく感触をつかめずにとうとう大人になり結婚までしてしまった僕でも、「こども」が尊いものだということは簡単にわかった。
(ただし、これはあくまでも、”実際子を持つと”という大それた話ではなく、想像していた範疇を超えてこない中での話であるのと、本能でなくミームのみで「愛」を説明してして欲しいという羨望がおおきく精神に内在しているので、僕の中では愛の答えを得たことにはなっていないし、満足できていない。)


こういったごく一般的な感覚とは別に、最近なぜか息子の顔や手指を見てすこしうらやましいような不思議な感覚に襲われるようになった。
顔のつくりひとつとっても、骨格が伸びきっておらず丸い顔であるところを見ると これはこれからどんなかたちの顔になるか、ものすごく整った顔立ちになるか、あるいはアンバランスで強面になるのか、このままたいして変わりもしないのか、という無限に近い可能性があたまに浮かんでくる。おなじように、手指や四肢に至っても丸く短く、どういう方向にいくのか、どう伸びるのかまるでわからない状態だ。肉体的にも精神的にも可能性の塊なのだ。

ミームについても、まだ原初的で未熟な情報のみが書き込まれている無垢な状態なのは間違いない。産まれたばかりなので当然も当然なのだが、彼にはすべてにおいて想像の余地がある。このいかようにもなるという不安定な状態こそ、なぜか最も美しい状態に思えてならないのだ。ちなみに、サモトラケのニケとかミロのヴィーナスの部位欠損の美学の類とは厳密には異なるような気がしている。僕のいっているのを当て嵌めると石や粘土のままの状態が最も美しいという論理になってしまう。

子供のときからよく画を描いた。

気持ちの浮き沈みは、スケッチブックを買ったときがいちばん最高潮にぶちあがっているのに、線一本、一枚とだんだんと絵を描いていくうちにスケッチブック自体がどんどん他でもない自分によって、みすぼらしく気にくわないものに変えられていくような気がしてしまっていた。

破っては捨て、破っては捨て、残り枚数が少なくなりスケッチブックとしてあきらかにおかしいような体まで冊子自体の矮小化が進んでしまうと、絶望的に暗い気持ちになって泣きたくなったりしたものだ。

いわゆるロリータ・コンプレックスとか言われているような性的嗜好は自分にはまったくないが、極限の感覚の先では、
ある種の同じような「無垢」にたいしての病的な憧れがあるのかもしれない。


rudimentaryとでも言えばいいのだろうか。

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