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母は『虎に翼』の時代を生きた

今日は10月9日、母の命日である。

私はこれまで、幾つかの記事の中に『虎に翼』の話題を何回か書いた。
それは、素晴らしい作品に関して、感動を語りたかったのと同時に、かつて母から繰り返し聞かされてきた
[女性が受けてきた不平等な扱い]
を改めて考えたからだ。

あそこまで[平等への願い]を崇高に描いたドラマを観たことがない。


母は大変勉強好きで、リーダーシップがあり、粘り強く物事に取り組む人だったが、女学校卒業時に、進学を親から反対されて、断念しようとしていたらしい。
あの時代の、女にこれ以上学問は不要、というよくある話だ。
しかし、母の担任の先生は家まで来られて、

「娘さんを進学させるべきです」

と頭を下げて説得してくださり、とうとう親も許さざるを得なかったそうだ。


そのようにして期待されて進学し、必死に学んで、希望に満ちて就いた職業で邁進するも、何年か後、産休などとても取れない状態になった。
追い込んだのは上司・同僚の男性たちであった。

『できる女』は憎まれ、疎まれ、何かあれば「女だから」「女はこうすべきだ」と追い込まれたのだった。
あの性格の母ですら、それに対抗できなかったそうだ。

姉の出産の時は、まだ踏ん張って産休を取って働き続けた。
しかし私の出産の時は、とても仕事を続けたいと言える雰囲気ではなかったという。

母はその後、一主婦となったが、我々の子育てが一段落した頃から、婦人の活動に力を注ぎ、女性の地位向上の為に尽力していた。
政治や世の中へ興味関心を持ち続け、読書好きで、女性の希望の星・市川房枝議員の記事などをよくスクラップしていたものだ。

そういう面もありつつ、書道、ピアノ、料理やお菓子作り、裁縫など何をやらせても大変上手い人で、何か行事などある毎に、人から何かと頼まれ事をされる人であった。

どんなに疲れていても、具合が悪くても、粘り強く歯を食いしばってやり遂げてしまう。
母と比べると、私は何とナマケモノなのだろうかと、いまだに思うのだ。

▪️私の進路・仕事
母が姉と私の進路に関して言ったことは二つ、

「男性と対等に働ける職業に就く事」
「結婚しなくてもいいから、生涯仕事を続ける事」
であった。

姉も私も、自分の望む進路は許されなかった。
母が働いていた時代から歳月は流れ、相当世の中は変化しているのだから、と言ったところで、まだまだ世間は女性は結婚して退職するものであるという時代であったし、過去に母が受けていた、女性に対する不当な扱いの記憶は消え去ることはなかったからだ。

私が小学校の時、父に英語の教材を買ってもらってから英語に興味を持ち、中学校以降はずっと得意科目であった。
しかし母は良い顔はしなかった。

母が英語を忌み嫌っていたのは、勿論戦争体験による。敵国の言語であったからであり、私が英語の勉強が好きである事を常に否定していた(「でも成績は良くなければいけない」と言っていた)

父も母も戦争の後に結婚した。晩婚であるので、私や姉と年齢差が大きい。
世代間ギャップと一言では言えない隔たりがあった。


「いつか外国で暮らしたい」とヨーロッパを夢見て、小学校の頃によく話したものだが、

「外国?! とんでもない!」

と、あまりにも強く否定されたので、その後は怖すぎて口に出すのは躊躇われた。口には出さず、本ばかり読んで、夢を見続けた。

その後、姉も私も母の勧める学校に進学し、母と同じ職業に就いた。
しかし私たちは結婚するタイミングであっさり退職した。
世の中はまだそういう時代でもあったし。
また私たちはその職業から離れることに何の未練もなかった。

母の誤算は、姉と私の適性と本質を考慮せず、進路や職業を決めたことだった。

得意である事と、それを仕事としたいかどうかは別問題だ。
勿論学んできたことは役に立っているけれど、それと働く事とは違うでしょ、と後に伝えた事もある。


私はその後しばらくして、自分の可能性を試し、働きたくなり、また仕事に就くこととなった。

母は大反対した。
「これまでの教育は何だったの?!」と。
「…でもお母さん、私の人生だから、もう何も言わないで。」

母にこんな言い方をしたのは初めてであったし、母は職業の選択に関して、初めてそれ以上口を出すことはなかった。


転職後しばらくして、健康で丈夫であった母は突然の事故で亡くなった。
我々のショックは大きかったし、その日からすぐ父の介護が始まり、生活は大きく変わった。
母に反対された、その仕事を続けるのは無理に思えた。

勤めたばかりであったが、この突然の出来事に会社は厚く配慮をしてくれた。
「取り敢えず休みを取りながら、仕事を続けてみては?」と提案してくれたのだった。

結果的に、

⚫︎男性と同等に働ける環境であったこと
⚫︎気質に合う仕事であったこと
⚫︎また長く働き続けられる環境であったこと

これらを母に伝えられなかった事を、本当に残念に思う。
しかも私はそこで20年以上働いたのだ。

母が亡くなった後、休みを長く取らせてもらえて、父の介護をしながら働き続けられた事を知ったら、また前職より給料も高く、私の性格に向いた仕事であったことをもし知ったとしたら、母は何と言っただろうか。

しかし、亡くなる数ヶ月前、私の仕事の事で、母をがっかりさせたのは事実であり、いつまでも記憶に残る。


▪️余談
以下は、私の見た夢の話である。

今、ドイツに住んでいることなど、想像もしていなかった頃の夢。

母が亡くなった直後、しばらく悲しい夢を見続けた。
はっきりしたものではなく、灰色の渦や暗い風景の中にいる母の姿がぼんやり遠くに見えるような夢ばかりであった。
体調が悪い父を残して亡くなった、母の未練や心情を表すような夢だと感じていた。


しかし半年ほど過ぎた頃、鮮やかな夢を見た。これまでの人生で、あれほどはっきりとした景色と人物の夢を見たことはない。

私は明るい日差しの中、花々が窓辺に咲きこぼれる、ドイツの古い街並みの通りを歩いていた。
目が醒めて、あれはドイツだと思ったのは、ドイツの代表的な構造の家、ハーフ・ティンバー構造(木が外側にあらわになって、その木と漆喰で壁が作られている)の家が並んでいたからだ。

そこを歩き進むと、左側の家の2階の窓辺で若い女の人が空を眺めていた。ディアンドル(ドイツの民族衣装)を着た、とても健康そうな人だった。

夢の中で私はその人を見て、母だと思った。
その頃の私よりもずっと若い姿であり、全く知らない顔立ちのドイツ人女性であったけれど。

「お母さんは生まれ変わってあの人になったんだ!
若くて健康そうで楽しそうで、本当に良かった!」

そう思いながら、その窓辺の女性を見つめていた。そして目が覚めた。



美しい街並みと鮮やかな花の色、その女性の顔は長い間忘れられなかった。単なる夢である。でもそうあってほしいと願い続けたのだった。

母が亡くなって27年目の秋である。


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