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多言語学習は楽しい〜番外編②〜白馬を見る時、いつも父を偲ぶ

▪️父という人

どうしてもいつか書いてみたかった話がある。ドイツ人との関わりがある為、このタイトルを継続させた。

[多言語学習は楽しい①]で父が英語教材を買ってくれた事を書いた。その父が、私に語った話である。

父と私は年齢差があった。父は大学卒業後に戦争に行き、抑留され、その後日本に帰還してから母と結婚していたので、かなり晩婚であり、また姉と私は4歳差であるので、更に年齢の差が生まれたのだった。

同級生の親御さんたちと比べてかなり年上であったので、別れの時期も早かった。もう亡くなって長い年月が経っている。
「今、親の介護をしている」と同級生から聞くにつけ、これだけ年齢差があったのかと改めて考える。

戦争の折、父はウクライナで抑留を経験している。
それについて、私はとても語ることはできない。
抑留された日本兵の状況、極寒の地での過酷な強制労働や、数万人が亡くなったという事実、検索して知ることはできても、直視できない。

父が一切語ったことがないからだ。口にすることすらできないほどの辛い経験を胸に奥に抱えているからだ。
それに触れてはいけない、尋ねてはいけないと感じていたし、何より私は幼すぎた。

小学校の頃、父の内面を感じさせる雑誌があった。
父は当時、発刊されてまもない『暮しの手帖』を定期購読していた。徹底的な商品テストなど気骨のある企画の雑誌であるとともに、外国を旅することや、本格的な海外の料理の作り方、洗練されたエッセイなど、美しい暮らしを紹介してくれる雑誌であった。  

父にとって、豊かで自由な時代が到来したことを改めて感じられる雑誌であったのだと思う。

父は、当時の編集長、花森安治の革新的な考え方に興味を示していたし、商品テストの話を私ともよく話した。母は珍しいお料理のページを見て試していたし、私はエッセイを楽しみにしていた。

{すてきなあなたに}というそこだけグリーンで印刷された数ページ。毎号10話ほどのテーマの様々なエッセイは、こんな生き方をしている日本人が本当にいるの?と思うような優雅さがあった。
ヨーロッパの乾いた空気を感じる洒脱な文章、
海外の家庭の暮らし、旅で出会った人々、カフェ、丁寧な日本の暮らしについて、食、文化etc

暮しの手帖は、発行された初期の三年分くらいが実家の本棚に残されている。
表紙の花森安治の絵にしても、装丁にしても大変美しく、その内容の価値を思えば、文学全集と共に本棚に並べられていたことに納得する。

読み直してみると、各メーカーから次々と販売されていた、電化製品の性能の比較テストなどがやはり懐かしい。
エッセイは時代を軽やかに超えていて、今読んでも全く色褪せていない。

父があの雑誌を好んでいたのは、自由闊達さと新しい物の見方や価値観を求めていたからだったと思う。

父は物静かで、勤勉で口数も少なかった。手先が器用で、暇な時に新しい何か、思いついた物を作ってみたり工夫するのが好きなようだった。
生真面目に暮らす日々の中でも、実は面白いことが好きな様子が見え隠れしたし、書棚の本の傾向から文化や芸術に興味があるようだった。またコーヒーがとても好きで、よくサイフォンで楽しそうにコーヒーを淹れていたのを覚えている。 

子どもながらに、父があと10年、20年、遅く生まれていれば、戦争の辛い体験もなく、もっと自由な別の生き方をしたり、楽しみを持てただろうに、と思ったものだった。
仕事帰りにカフェでコーヒーを楽しんだり、パソコンをいじったり、当たり前に皆がやっている自分の時間を過ごせただろうに。


▪️私が聞いたただ一つだけの戦争の話

そしてある日、父は語った。
ある日、父が幼い私にもわかる言葉を選び、話し始めた。膝の上で遊んでいる時だった。なぜその時だったのかはわからない。

父はそれまで戦争や抑留の事を語ることはなかった。
しかし、その苦労は母から聞かされていたし、いかに恐ろしく苛酷であるのかは、テレビでドキュメンタリーの映像などから、幼いながらに察しはついていた。


戦争の時、大勢の日本兵が日本に帰れないまま、ソビエト各地に抑留された。父はウクライナに抑留されていたそうだ。

「寒いし食べ物はないし、外で働かなければいけなくて、とても大変だった。けれど、こんなこともあったんだよ。」
と。

強制労働をする日々の中、ある日、父がドイツ語をかなり話せる事を知った上の立場の人から、ドイツ人医師の通訳として手伝いをするように指示されたのだそうだ。

皆と同じ労働をさほど軽くされたわけではないにしても、父だけが通訳として手伝いをするようになり、医師からは喜ばれ、重宝がられた。
医師はとても良い人で、父に大変親切にしてくれたそうだ。父は穏やかで生真面目で誠実な人であったから、信頼されたのだと思う。

過酷な日々の中、そうした変化が、いかに父の心を救ったか想像がつく。
大学で学んだドイツ語、その語学力が人の役に立ち、喜ばれ、親切にされる。
抑留中の特殊な環境の中にあって、明るい一筋の光のようなものだったと思われる。
それを語る父は嬉しそうだった。

そして父にはご褒美が与えられた。
日本人兵士たちは外での労働の際、馬に乗ることがあったそうだが、特別に父にだけ、白い馬をあてがわれたのだそうだ。
しかもその馬は、映画の撮影の折、女優さんが乗ったという特別な馬だった。

白馬は珍しく美しく、仲間からは羨望の眼差しが向けられた。
「みんながとても羨ましがったんだ。」と父は誇らしげに少しだけ微笑んだ。

父は、大人しく控え目だった。目立ちたがり屋ではなく、羨ましがられたとしても威張るような人ではない。
痩せていたが骨太で姿勢が良く、綺麗な面差しの人だった。
父が美しい白馬にまたがり、少しだけ誇らしげにしている姿を想像した。
抑留生活での過酷な日々の中、ほんの少しの嬉しい出来事を支えに過ごしたであろう父を思い浮かべる。

ドイツ人の医師、どんな人だったのだろう。
私がこの国のどこかの街ですれ違う誰かが、もしかしたらその人と繋がりがあるかもしれない、といつも思う。
「あの時、父に親切にしてくださってありがとう」と、いつもどこかの誰かに向けて思っている。

見知らぬ人に親切にしてもらう度に、父の分も含めて、お礼を伝えるようにしている。

Vielen Dank für Ihre Freundlichkeit.

実家には父の写真の前に、抑留生活中に作った箸が置いてある。店で売っているような箸よりは太い。父はそれを日本に持ち帰り、生涯使い続けた。

硬い真っ直ぐな木を見つけ、部屋に終わってから、地道に削り形を整え、磨いたものだ。丁寧な手仕事が父らしい。
いつまで続くのか、本当に日本に戻れるのか、不安な夜も手を動かすことで、自分らしく心を整える時間であったのかもしれない。
調べてみると、その期間は長い。想像もつかない。


白馬の話にしても、箸にしても、とても父らしいエピソードだと思いながら、膝の上で聞いたのだった。

英語の教材を買ってくれた時の言葉。
「外国の言葉が話せると役に立つよ」
本当に役に立っていたのだ。

白馬を見る度に、その背に跨り、誇らしげに少し微笑む父を思い浮かべる。


▪️付記
父は、抑留中に仲間であった人々と、その後も長く繋がりを持つ。1年に一度東京で会合があり、必ず出かけていた。
父はお酒もさほど飲まない人であったし、大勢の人々と親しくするタイプの人ではなかったが、この会だけは出席している。
かの地で同じ年月を過ごし、生き抜いた仲間たち。
ガリ版で印刷された、会の名簿をよく覚えている。
まだ存命の方はいらっしゃるのだろうか。

会の名前は【カルトーシカ】
ロシア語でジャガイモを意味する。









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