「久しぶり」ということについて

「10年以上会っていなかった人たちと会うのはとても緊張することだ」と昨日まで思っていた。とりわけ大人数がいる場所では。
そんな思い込みがちょっとだけ変わったよ、という話を実家のもさもさした動きのパソコンで書いてみる。

昨日は自分のいた高校のいわゆる同窓会的な集まりがあった。私自身はそういうのにまめに顔を出していた方ではなかったし、卒業後にあっていた人たち同士でよー!元気かーってなっている輪に果たして自分が入っていけるのか、などなど様々な心配をしていた。
リラックスをするために、大阪→東京の移動でいつもはめったにしないグリーン車の移動をしてみたりもした(ぷらっとこだまで+1,000円ちょっとで、これは純粋に価値があった)
「ドレスコードはありません」ってメールに書いてあるのにみんな黒いスーツなのでは、なんならちょっといいやつ着てくるんじゃないのみたいな就活の亡霊みたいな無用な心配をして、今年上半期にあった結婚式で「黒じゃない服で」というドレスコードがあってわざわざ買って「果たして2回目を着ることはあるのだろうか」と心配した緑のスーツを動員して、ちょっとだけみんなが着てくるであろう服とずらしてみたりもした。小田原からデッキとトイレを往復して着替えて新横浜から入念にひげを剃った。

結論を書いてみよう。まずスーツの人は(私が見た限り多分)誰ひとりいやしなかった。そして、私の単なる思い込みの可能性(相手はそう思っていない)だってあるのだが、一言でいえば「つきものがとれた」ように人と話すことができて大いによかった、と思っているのだ。上に書いた様々な心配はどれも無用なものだった。在学中のあんなことやこんなことがあって、誰誰とはこのくらいの距離感で、、という微妙な事情が、13年ぶりという場であったことで(完全にとはいわなくても)あんまり気にせずに話すことができる場であった。久しぶりだから、こんな質問オモろくないかもな、って普段だったら思うかもしれないなんてことのない質問だって相手にできるし、そこからフツーに話せた人もいれば意外に話が盛り上がった人だっていた。名前を思い出せない人ばっかりじゃないの、って心配していたけれど、もちろん思い出せない人もいるけれど、自分の記憶力をもうちょっと信用してみよう、と思えるほどには案外思い出せるものだった。在学中あんまり絡んだことないけど、という自分が心の奥で思っていた枕詞をつけてしゃべってくれる人もいて、多分13年振りだからそういう枕詞をつけて話すこともできて、それもまた話しやすかった。

そして、みんな自分が思っているほどたくさん会っているわけではなかった。高校まで東京だったが、それ以降あんまり東京にいなかったこともあってたくさん会う機会が他の人はあるのだろう、などと思っていたのだが別にそんな人たちばっかりじゃなくて、久しぶりであることを素直に楽しんでいる人たちが多い印象を受けたし、自分もまたその一人であった。

ということで、冒頭の私の心配はいったい何だったのだろう、という感じで楽しむことができたので、私自身は参加してよかったと思っている。でも、多分これは卒業後1,2年とか5年とかではこうはならなくて、13年という年月がそうさせてくれたんじゃないかな。

あと、全国にいる、私のような「同窓会出不精症候群」の人にとって、ひょっとしたら今はチャンスかもしれない。それはコロナ禍という期間があったことで、期間の大小はあるにせよみんなが久しぶりの状況になっている可能性があるからだ。私がいた高校のコミュニティが恵まれている、というのは大いにあるかもしれないし、在学中とびきり嫌なことがあった人には当てはまらないだろうけれども、久しぶりの状況の人同士はどれだけ久しぶりだ、とかあいつ今まであんまり顔出さなかったよね、とかそんなのあんまり気にしなくて、久しぶりを久しぶりとして案外楽しめるものなのではないか?というのを昨日感じたので、同じような状況の人にも今久しぶりに会うような会があったら、久しぶりに行ってみることをおすすめしてみたい。

久しぶりに会える場を作ってくれた人に感謝をして、締めとしたい。同窓会で私のnoteのことを話してくれた人がいたので、久しぶりに更新してみました。


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