モラトリアムなのか

 高校の授業で自分cmを作らねばならなかった。素人10人かき集めてとりあえず10分の短編を撮れと命じるなかなかアグレッシブな授業だったが、一年の最後の授業はそれだった。

なにをいまさらこんなクサいものを作らせるんだと講師は前置きしつつ、「自分って何だろう」は近い将来みんな必ずぶち当たるものだからと言っていた。

過去の先輩方の作品を見ると、実に青い。嫌われるかもしれませんが、学業も部活も成績がよくて大学はどっちに行こうか悩んでいますという男子生徒、器用貧乏で個性がありませんと言ってのける女子生徒。

自分はこういう人間ですというとき、さらけ出せた人間は誰もいなかった。みんな自尊心を捨てきれず保険をかけ、さらには自虐という保険をかけなおす。自尊心?自惚れにも見える彼らの保険は見ていてとても滑稽で、確かにそれっぽいものはできるかもしれないが、自分は彼らと同格に見られたくない、もっと深いモノを出すか、やらないかどっちかだなと反射的に反発を覚えた。

しかし企画書を出すまでは一週間もない。取りあえず樹木図でも書いてみるが、なにも出てこない。彼らのような浅いそれっぽいモノですら出てこなかった。

結果私は逃げた。それ自体には全く後悔などはしていないのだが、勝てない勝負を早々に諦めた。やりたいことが分からない。自分が何者か分からない。文字に起こしてみると甘酸っぱい日々の葛藤だが、今これを形作りなおすなら、レヴィナスでいうところの他者。理性の光の届かない場所だった。即ち、自分が他者。

自分という存在の輪郭をつかもうとすることは、この後に何度か試みた。4月noteを始め文を書き、次第に離れ9月にスタエフを始めた。また11月にnoteに戻り、再び書き言葉の世界で自分を綴る。やはり自分とって思考に深く潜るには書き言葉しかないと思いはじめるなか、また迷う。

なにか潜り込んでいくように文を綴ると、ひとつ作品が出来上がる。これを積み上げると何かあるではないか、と思っていた自分がおこがましい。

私が書いたものは時間にしてせいぜい数分。自分と外の世界の接地面の感覚の世界。意識のほんの表層に過ぎない。翻って出会った人々は、自分の歴史そのものが作品にのる。10年、20年がのっている。結局、手段を変えたところで、他者はぴくりとも動いてはくれない。

ただのモラトリアムか。人間だれしも通る道なのか。未来の自分がこれを見返すとき、懐かしさに浸るだけなのか。過去何かに悩むとき、それは鬱を伴った。しかし今日は初めてそれを伴わない。ただ単に、自分の見据える先に闇がある。目を凝らしても何も見えない。

たかが1カ月で何を言う。1年続けた先に何かがあるかもしれない。しかし一生背負っていく命題かもしれない。別に生活する分にはこんなもの必要はない。ただたまに、ジャンプしたまま次の着地点が決まらないことが妙にリアリティを持ち、いっそこのまま終わってしまおうかとよぎるようになった。別に死の直前の生存願望に打ち勝てるほど強いものではないが、社会のレールから解き放たれようとする今現在、それは自分にとってかなり深刻なものなのかもしれない。


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