『喜劇 愛妻物語』について

以下、私的にはネタバレではないが、人によってはネタバレだと感じる内容を含むかも。

 この映画について何か言うのに、ちょっとだけ気を遣うのは、これが実在の夫婦(足立紳監督と妻の晃子さん)をモデルにしているという点だ。当然ながら、私は彼らの夫婦関係や、人格を否定したいなんて1ミリも思っていない。あくまで表現として、疑問を抱く側面がある。

 私には、この映画は黴臭い「男性の性欲と甘えを仕方ないなあって笑って受け止めてかわいいって言って」カルチャーを地でいくものに思えた。「まあ、引く人もいるよね、それも折込み済み」という男性の顔も、「あ〜ダメな人はダメかもね〜、でも私はこういうの全然オッケーだし結構笑える(^^)」という女性の顔も、スクリーンの向こうに透けて見えた。だが「引いてる」なんて言葉で片付けられたくはない。はっきり言って有害だと思ってるし、怒ってる。
 映画の中に、性犯罪を面白おかしい軽微なものとして扱うような描写がある。例えば、セックスしたくて仕方ない主人公の豪太が、旅先で妻をその気にさせようと目論む場面。世間話から入るように見せかけて、彼は、「最近あったニュース」の話をする。「遭難したカップルを、地元の人が助けたって話があったじゃん? あれ実は、そのおじさん彼女を介抱してるうちにその気になっちゃって、その子に悪戯しちゃったんだって…。彼氏そのとき見てたのかな…どんな気持ちだったんだろうね…?」この話が豪太の創作だろうとそうでなかろうと、彼は性犯罪を、エッチなエピソードとしか考えておらず、映画の作り手はそんな彼の価値観と行動を「バカで笑えるもの」として扱う。百歩譲って、この現実の世界においてそんな人は限りなくゼロに近いということであったら、これも一つのエグいユーモアとして捉えられないこともないかもしれないが、実際にはこんな発想の輩はざらだ。彼らは弱者ではなくマジョリティであって、このような無批判な描写は、その立場をより強化するものに過ぎない。そもそもこの映画はタイトルにも謳っている通り、コメディたろうとしているわけだが、笑いを生み出す装置として「豪太はセックスしたくてしかたがないのに、妻がやらせてくれない(でも風俗に行く金はないから何とかして妻とやるしかない)」という設定を据えている。あるとき豪太は深夜、妻に逆ギレして街へ飛び出し、泥酔し意識を失った道端の女性の下着を覗こうとする(マジで性犯罪に手を染める5秒前)。またあるときは、娘を公園で遊ばせている間、彼女の呼ぶ声にも気づかずに、不倫相手とテレホンセックス。こえー。きもいけど、きもさを超えて、これらの描写から伝わってくるのは、恐怖である。
 性犯罪は犯罪で、暴力で、加害で、今現在、この国にも世界にも溢れている。女性に対する抑えられない性欲や、女性を欲求を満たす道具のようにみなす価値観は、男性にとってありふれたものでも、女性にとっては脅威である。履き違えないでほしい。内心の自由を行使して妄想を楽しんでいただく分には、誰も止めないが、映画の中で無自覚・無批判に娯楽として押し出してくるのは、有害だ。陳腐だからこその有害さ。

 水川あさみ演じるチカは、とてもチャーミングだった。しかし「だからいいでしょ。文句は言ってるけど結局このコワい奥さんを讃えてるんだよ、この映画は。愛じゃん」というエクスキューズは受け容れ難い。文句は言っても愛情深く、体を張って夫の夢を応援するチカに対し、豪太の方はどうしても、彼女を利用し、搾取しているようにしか見えなかった。与えられるものに感謝はしているが(して当然だ)、甘えはあっても愛はどこ?という感じで、寂しくなった。
 この映画はリアルだった。「人間てこういうもんだよね〜」って感じ。その点では優れてるのだと思うが、ただ、それでは許せない部分があった。映画はコレクトネスが全てではないけど、この社会に、この映画、無自覚、無批判、再生産、いろいろ考え合わせると、歯が折れるまで噛みつきたいような気持ちになった。歯がもったいないけどな。

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