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非常に多くのけんそんで知られざる子らの祈りと犠牲のおかげで、聖母は教会を回復させ社会に平和と調和をもたらし給う(2020年12月1日)

[編集者注]
ここでは、ヴィガノ大司教は聖母に対する信心、崇敬を訴えています。ここには、ヴィガノ大司教の聖母を喜ばせたい、聖母に忠実でありたいという気持ちがにじみ出ています。同時に、現在、多くの聖職者たち特に司教たちが、聖母に対して無関心でいるのを見て、ズキズキと心が痛み、辛くて目元が痛くなり、泣くに泣けず「空しく涙が出るような痛みが起こる」と言います。
ところで使徒聖ヨハネの黙示録には「七つの頭と十の角をもち、頭に七つの冠のある赤い竜」(悪魔またはサタン)が、でてきますが、これには二頭のけものが仕えます。海からのけもの(政治権力)と地からのけもの(宗教権力)です。
海からのけものは「豹のようで、その足は熊、その口は獅子のよう」で「十の角と七つの頭とをもっていて、角には十の冠、頭には冒涜の名」があります。大天使聖ミカエルは「だれが天主と比べられようか、誰か天主にしくものあらんや」と雄叫びの声を上げましたが、それとは対照的に人々は海からのけものにこう言います。「だれがこのけものと比べられようか。だれがこれと戦えようか。」
二頭目の地からのけものは「小羊のような二本の角をもっていたが、竜のように話し」海からのけものに仕えます。「あらゆるところに、その覇権の地を定め、致命傷をいやされた先のけものを礼拝するため、地とそこに住む者を連れてきた」このけものは、見かけは「小羊のよう」で「二本の角」は司教のかぶるミトラ(司教冠)のようです。しかし本来なら、変化するこの世(=海)と対立しているはずの不変の宗教(=地)が、この世に仕えているのです。
黙示録には、二人の婦人がでてきます。一人は「太陽に包まれた婦人」で、冠をかぶり、男の子を生む母親です。もう一人は「大淫婦」です。後者は、地からのけものと同じものだと解釈されます。大淫婦についてはこうあります。「紫色と緋色の衣をつけ、金、宝石、真珠でかざったその女は、憎むべきものと淫行のけがれとに満ちた金のさかずきを手にもち、そのひたいには名があった。それは奥義である:"大バビロン、地上の淫婦と憎むべき者との母"。」
ヴィガノ大司教は、今、教会の一部の聖職者たちと「世俗の権力との悪しき共謀」を見て、黙示録の時代が実現しつつあるのではないかと考えています。

ところで、何故、カトリック教会はこのような事態を招いてしまったのでしょうか?

それは、今から55年前から、天国の幸せや地獄の苦しみ、永遠や真理、超自然や原罪、ということを語ることを放棄してしまったからです。そういう超自然について沈黙する態度を「司牧的だ」と呼びました。人々は教会だけでしか聞くことができた真理をもはや聞くことができなくなってしまいました。
半世紀前の大イベントの後、天国のことよりも、この地上の世界を楽園にしよう、ほかのいろいろな宗教とも協力し合いながら、よりよい社会を一緒に築いていこう、仲良く平和な世界とつくろう、と目標を変えたからです。このような態度を「開かれた教会」と呼びました。しかし、人間を福音の教えに従わせるのではなく、教会の教えは時代にあわせて信仰や道徳を適応していかなければならないという錯覚に陥ってしまったからです。
その時から、突然、教会の過去の教えはあたかも間違っていたかのようにフェイクニュースが流れたからです。そこで「教会の他にも救いはあるし、神は神だけが知っている方法で、他の宗教の人たちをも救うに違いない」と思い込まされたからです。このような態度を「エキュメニカルだ」と呼びました。こうして「エキュメニカルな」態度により、永遠の救いをもたらす唯一の箱舟としてのカトリック教会の存在理由は失われてしまいました。
第二バチカン公会議という大イベントをきっかけに、天主なるキリストへの礼拝よりは、人間の奉仕のために優先順位を移しました。つまり「なぜ、この香油を三百デナリオに売って、貧しい人に施さないのか?」(ヨハネ12章)という態度を取り始めます。このような態度は「貧しい人の優先的選択」と言われます。この態度は、ついに、救い主イエズス・キリストを奴隷の値段で、敵に売り飛ばすことにつながってしまいました!
ヴィガノ大司教は、ファチマの聖母が「最後には私の汚れなき御心が凱旋するでしょう」と約束をしてくださったことに、希望と慰めを見出しています。力ある童貞である聖母は必ず勝利する、と。聖母を愛する無名の多くの人々の祈りと犠牲のおかげで「聖母は、聖なる教会を回復させ、社会に平和と調和をもたらし給う」と。ロザリオの祈りをもって、私たちも償いの業をおささげ致しましょう。

2020年のバチカンの御降誕馬小屋セットの天使(有名なコーヒー店のロゴではありません)
月を手にもつ宇宙飛行士

VIRGO POTENS
力ある童貞

無原罪の御孕りの祝日の準備に

福音のたとえ話(ルカ16章19-31節)の中で、おごり暮らす金持ちが、貧乏人ラザロを助けなかったために地獄に落とされた後、自分の兄弟5人が同じ罪に陥らないようにするために、自分が受けた苦難について警告してほしいとアブラハムに頼みました。アブラハムは彼にこう答えました。「モーゼと預言者に聞かないなら、死者の中からよみがえる人がいても、彼らは聞き入れまい」(ルカ16章31節)。

歴史の中で、聖母は愛に満ちた母として、罪のせいでこの世に重くのしかかる罰を私たちに警告し、人類を回心と償いに招き、その子どもたちを無数の恩寵で満たすために介入してこられました。天主のみ言葉が忘れ去られたと思われる場所ではどこでも、すぐ特別な信心を告知するために、すぐ疫病や災難から逃れるために犠牲と祈りを求めるために、聖なるマリアの声が聞こえてくるのです。キト、ラ・サレット、ルルド、ファチマ、ローマ、秋田、チヴィタヴェッキア、その他千カ所もの【多くの】別の場所で、すべての恩寵の仲介者は、天主の法に反抗するように惑わされた人間性を思い起こしつつ、まことの悔い改めをして聖なるロザリオを唱えるように、私たちを諭してこられました。ご出現の時代や状況はさまざまに変化しますが、私たちあわれな死すべき者【人間】に姿をお見せになるお方は、常に同じように、いつでもあわれみ深く、いつでも私たちの代願者でいらっしゃるのです。

ファチマでは、牧童の子どもたちにご出現になった聖母は、教皇に対して、すべての司教たちと一致して、ロシアを汚れなき御心に奉献するように願われました。この訴えは今日に至るまで、もし聖母の願いを聞き入れなければこの世が直面するであろう災害があるにもかかわらず、無視され続けています。共産主義の過激な無神論がいたるところに広がり、教会は冷酷で残忍な敵に迫害される一方で、内部には悪徳に屈した腐敗した聖職者が横行しています。しかしながら、ご出現の超自然的な起源と人類を苦しめる災厄の証拠を認識しているにもかかわらず、位階階級は聖母に従うことを拒否しています。「モーゼと預言者に聞かないなら、死者の中からよみがえる人がいても、彼らは聞き入れまい」と、アブラハムはたとえ話の中で金持ちに言います。彼らが、私たちの母でもある天主の御母の声に耳を傾ける方法さえ知らないということがあり得るのでしょうか。この世が深淵に沈み、多くの霊魂が地獄に落ちているというのに、何が彼らの心を圧迫し、何が彼らの心を耳が聞こえず目が見えないという段階にまで弱らせているのでしょうか。

王たるキリストの普遍的な主権に従って、私たちは、至聖なるマリアを私たちの元后として崇敬することも受け入れます。また、私たちが主祷文で「み旨の…行われんことを」という言葉を唱えるとき、私たちはこの言葉が、時の初めより選ばれてその童貞なるご胎内に王の中の王を生み出すにふさわしいお方、従順とけんそんの模範である私たちの母のみ旨と完全に一致することを知っています。天主の御母の望みはすべて、私たちへの要求です。それを命令と考える必要さえもありません。なぜなら、私たちの対応と私たちの望みは、聖母を喜ばせ、聖母に私たちの忠実さの証しを捧げることであり、またそうあらねばならないからです。そして、このことは、聖なる叙階の秘蹟によって、大司祭イエズス・キリストの司祭としての塗油を受けている聖なる役務者たちに極めてよく当てはまります。すべての司祭の中に、至聖なるマリアは、彼らの手を通して祭壇上で自らのいけにえを神秘的に新たにする御子を見ておられるのです。

それゆえ、多くの奉献された霊魂や多くの司教が、あまりにも多く、童貞聖マリアに対して無関心であることを目の当たりにすると、痛みが、空しく涙が出るような痛みが起こります。ベルゴリオ自身が聖母に対する敬意を全く欠いた発言をするのを聞いたり、この前の復活祭の教皇の典礼行事を大幅に減らしたあとで、新型コロナウイルス感染症を利用して聖なる降誕祭の典礼行事の一部を中止しようとし、毎年12月8日に教皇がローマのスペイン広場に行って、そこに1857年に建立された無原罪の聖母の記念碑を崇敬するという伝統を中止しようとしているのを知ったりすると、心が痛く、涙が出てきます。【12月8日についてはフランシスコ教皇は朝7時に一人で行かれた】このようにして、いま一つ、ローマの一部が捨てられました、それは、皮肉な商人が健康独裁政権への忠誠の証しとしてローマの人々の生活から要求するいま一つの1ポンドの肉です。

カトリック教徒の教会、自らをキリスト教徒の名をもつことで誇りに思う者を愛する教会は、世俗の権威の前に退くような教会ではありません。つまりそうやって自らを世俗の権威の共犯者かつ高級娼婦とする教会ではありまえせん。そうではなくむしろ、至聖なる童貞とその天主なる御子を怒らせるよりも、最も残虐な苦難の中で死ぬ方が良いことを知りながら、勇気と超自然的なまなざしをもって迫害に耐える教会です。暴君が天主の御稜威(みいつ)に逆らい、教会の民を苦しめ、それを正当化しようとして正義と権威とを裏切るとき、教会は、黙ったままではいないのです。それは、脅迫に直面しても屈せず、権力や金銭に誘惑されることを許さない教会です。

つまり、贖い主の御苦しみを自分の肢体の中で完成させてキリストと共にもう一度勝利のうちに復活するために、キリストの神秘体としてカルワリオに登る教会です。弱者や虐げられている者をあわれみと愛徳で助け、一方で傲慢で尊大な者や高慢な者の前には恐れを知らずに立っている教会です。この教会の教皇がかつて話していた時、キリストの群れは牧者の慰めの声を聞いていました。そして、かつては、心を一つにして、唯一の信仰告白において一致する長き歴代教皇の面々がありました。

その逆に、ベルゴリオのいわゆる「教会」は、教会を閉鎖することを躊躇せず、世俗の権力との悪しき共謀によって、天主を公に礼拝することを否定し、秘蹟の恩寵を信徒から奪うという邪悪な権利を自らのものとしています。この「教会」は、至聖三位一体を、新たな異教の宗教の冒涜的な儀式によって、偶像と悪魔のレベルにまで貶めています。この「教会」は、フリーメーソンの世界統一主義の名の下に、王たるキリストから王冠と笏を奪い取り、敵である異端者を困らせないように、共贖者かつ恩寵の仲介者であるお方を怒らせています。

この「教会」は、対話と寛容の名の下に、福音を宣べ伝える義務に背いています。この「教会」は、この世の精神を喜ばせるために、聖書と天主の掟を語らず、汚しています。この「教会」は、主御自らが私たちに教えてくださった、崇高で不可侵の祈り【主祷文】の言葉を改ざんしています

この「教会」は、司祭職の聖性を冒涜し,聖職者や修道者の償いと苦行の精神を消し去って,彼らを悪魔の誘惑に任せています。この「教会」は、2000年の歴史を否定し、キリスト教の栄光と、天主の御摂理の地上の出来事への賢明な介入を軽んじています。この「教会」は、キリストに従うよう霊魂を育成するのではなく、熱心に流行やイデオロギーに従っています。この「教会」は、自分たちの威信と権力を維持するために、自らこの世の君の奴隷になっています。この「教会」は、冒涜的な人間の礼拝(cult)を説き、天主の主権を拒否しています。

また、ベルゴリオが語るとき、信徒はほとんどいつもつまずき、混乱します。なぜなら、ベルゴリオの言葉は、信徒がキリストの代理者から聞くことを期待していることとは正反対のものであるからです。ベルゴリオは、例外なく自分の前任者たち全員に矛盾することを言って、教皇職と教会を破壊するために自分の権威を利用しているにもかかわらず、自分の権威への服従を求めています。

私たちには、「最後には私の汚れなき御心が凱旋するでしょう」という至聖なるマリアの約束があります。その聖なる愛の炎が私たち一人一人のものとなるために、その御心の中で燃える炎が私たちの心を照らし、私たちの心に時代のしるしを把握できるようにさせるために、最も純粋な愛徳で鼓動するその御心の前にひれ伏しましょう。そして、たとえもし私たちの牧者たちが恐れや共謀のために沈黙しているとしても、多くの信徒や善良な霊魂が「御あわれみを忘れず、そのしもべイスラエルを助け給う」(ルカ1章54節)天主の御あわれみを呼び求め、彼らの裏切りを償い、彼らの罪を償う機会を得ることができます。

今日、この現代の衆議所の大司祭たちは、私たちの主とその至聖なる御母を怒らせ、サタンの国を確立しようと欲している世界統一主義のエリートのために自己満足したしもべとなっているのです。明日、彼らは、力ある童貞の勝利の前に退却することでしょう。非常に多くのけんそんで知られざる子らの祈りと犠牲のおかげで、聖母は、聖なる教会を回復させ、社会に平和と調和をもたらし給うのです。

これが、来るべき無原罪の御孕りの祝日のための私たちの誓いとなり,これによって聖母であり私たちの元后であるお方を讃えることができますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2020年12月1日
待降節第一週の平日の火曜日
司祭殉教者聖エドマンド・キャンピオンの記念日

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