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聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきを与えている命令について(2021年3月31日)

【編集者注】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、「Exivit de Templo」(ヨハネ8章59節に基づく)と題した最新の発言で、「バチカンの聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを行うこと」を禁じる「国務省の匿名の役人によるつまずきを与える決定」を非難しています。

この禁止令は2021年3月22日に発効しました。この正式な通知には、国務長官代理・総務局長(国務省の第二位の命令権限者)であるエドガル・ペーニャ・パラ大司教のイニシャルが記載されていることから、ヴィガノ大司教は、この決定に責任のある「匿名の役人」が、過去にヴィガノ大司教が批判したことのある人物であると特定しています。

この禁止令を過去数十年の典礼の荒廃と結びつけながら、ヴィガノ大司教は「世界中の教区ですでに行われていることを明示したに過ぎず、60年間にわたり、第二バチカン公会議によって導入された教理上の逸脱が、会衆のいないミサには価値がない、あるいは、共同司式のミサや信徒が出席するミサよりも価値がない、とほのめかしてきた」と述べています。

大司教はこう説明しています。「近代主義者にとっては、いくつかのミサを同時に行うことほど嫌でたまらないことはありません。それは、『至聖なる御聖体の御前の』(coram Sanctissimo)(つまり、聖体顕示台の至聖なる秘跡の前の)儀式が耐えられないのと同じです。彼らにとって聖なるミサは晩餐であり、宴会であって、いけにえではありません。この理由により、祭壇はテーブルに置き換えられ、ご聖櫃はもはや祭壇の上には存在せず、『祈りと黙想にもっと適した場所』に移されているのです。この理由により、司式者は天主ではなく会衆の方を向くのです」。

大司教は、プロテスタントをなだめるために、「エキュメニカルな対話の障害となるカトリックの教義を弱めたり、沈黙させたり、明確に否定するために、改革されたミサが変更された」ことを思い起こしながら、教皇フランシスコも同様に、「至聖なるマリアの仲介者と共贖者の称号を平気で否定しているが、それはただひたすらルター派を喜ばせることだけを意図している、何故ならルター派は『教皇崇拝者ども』が一人の女性(聖母)を偶像化し、同時にイエズス・キリストが唯一の仲介者であることを否定していると主張しているからだ」ということを鋭く観察されています。

このつまずきを与える禁止令に直面して、元教皇大使はこう尋ねます。「私と同じように毎朝、聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを何年も捧げてきたレ枢機卿はどこにいるのでしょうか。これだけの乱用に直面して、なぜ彼らは今、沈黙しているのでしょうか」

聖なる三日間を迎え、教会における信仰と道徳の危機が続いていること(そして「世界統一主義(globalism)の名の下に確立されつつあるこの世の地獄」)を踏まえて、ヴィガノ大司教は最後に私たちに、こう思い起こさせます。「キリストの神秘体である教会は、自らの受難に近づいています」―ベネディクト十六世がファチマ第三の秘密に属すると特定したテーマ―「自らのかしらの苦しみを自らの肢体で完成させるために。贖い主のご復活から私たちを引き離しているこの日々が私たちを祈り、償い、犠牲へと駆り立てますように。それによって、…贖罪と償いの精神で、私たちの主の聖なるご受難に私たちが一致することができますように」。

大司教様のご要望にお応えして、CFNは喜んで以下に全文を掲載します。

EXIVIT DE TEMPLO
神殿を立ち去られた

ヴィガノ大司教「聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきを与えている命令について」

Jesus autem abscondit se, et exivit de templo.
イエズスはそっと神殿を立ち去られた
ヨハネ8章59節

3月12日、教皇庁の国務省総務局(First Section of the Secretariat of State)は、署名やプロトコル番号、連絡先なしで発表された布告により、受難節第一主日から、バチカンの聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを行うことを禁止しました。その後の数日の間に、レイモンド・L・バークゲルハルト・L・ミュラーヴァルター・ブラントミュラーロベール・サラジョゼフ陳の各枢機卿が、この決定に対して正当な困惑を表明しました。この決定は、その作成方法が不規則であることから、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの明確な命令であると結論づけられています。

カトリックの教理は、聖なるミサの価値、ミサが至聖なる三位一体に捧げる栄光、そして生ける人と死せる人の両方へのこの聖なるいけにえの力を教えています。私たちはまた、聖なるミサの価値と効力は、ミサに参加する信徒の数や司式者がふさわしい人物かどうかに依存するのではなく、むしろ、キリストのペルソナにおいて(in persona Christi)、また聖なる教会全体の名によって行う司式司祭の働きを通して、同じ十字架のいけにえを血を流すことなく繰り返すことによることを知っています。「suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis, ad laudem et gloriam nominis sui; ad utilitatem quoque nostram totiusque Ecclesiae suae sanctae.」(主が、御名のほまれと栄光のため、さらに、われらの利益のため、ご自分の聖なる全教会のため、あなたの手から、このいけにえを受け給わんことを。)

口にできないもののエドガル・ペーニャ・パラ大司教と簡単に特定される、匿名の国務省の役人によるつまずきを与える決定は、残念ながら、世界中の教区ですでに行われていることを明示したに過ぎません。60年間にわたり、第二バチカン公会議によって導入された教理上の逸脱が、会衆のいないミサには価値がない、あるいは、共同司式のミサや信徒が出席するミサよりも価値がない、とほのめかしてきたのです。

公会議後の典礼規範では、同じ教会内に祭壇を増やして設置することを禁止し、主祭壇でミサが捧げられている間は、副祭壇で他のミサを行ってはならないと規定しています。モンティーニの「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum)では、「会衆のいないミサ」(Missa sine populo)のための特別な典礼が用意されており、そこでは、例えば「主はあなたたちとともに」(Dominus vobiscum)や「祈れ、兄弟たち」(Orate, fratres)などの挨拶が省略されていますが、これは、あたかも出席者だけでなく、天上の宮廷や煉獄の霊魂もご聖体のいけにえに参加していないかのようです。

世界中のどの香部屋でも、司祭がミサを捧げたいと申し出ると、私はトリエント典礼のことではなく、改革典礼のことを言っているのですが、必ずと言っていいほど、前もって予定されていた共同司式のミサに加わることができるという答えが返ってきますし、いずれにしても、信徒の参加なしでミサを捧げることができるかどうかを尋ねると、疑いの目で見られます。私誦ミサを行うことはすべての司祭の権利であると異議を唱えることは無意味です。公会議の「心」(mens)は、第二バチカン公会議の「精神」を純粋な一貫性をもって適用し、その本質を明らかにするために、法の文面をはるかに超える方法を知っているのです。

一方、改革されたミサは、エキュメニカルな対話の障害を構成するカトリックの教義を弱めたり、沈黙させたり、明確に否定したりするために修正されました。

ミサの四つの目的について語ることはつまずきを与えることだと考えられています。なぜなら、この教理は、トリエント公会議で定義された聖なるいけにえの礼拝、償い、感謝、祈願という価値を拒否する人々を混乱させるからです。

近代主義者にとって、いくつかのミサを同時に行うことほど嫌でたまらないことはありません。それは、「至聖なる御聖体の御前の」(coram Sanctissimo)(つまり、聖体顕示台の至聖なる御聖体の秘跡の前の)儀式が耐えられないのと同じです。彼らにとって聖なるミサは晩餐であり、宴会であって、いけにえではありません。この理由により、祭壇はテーブルに置き換えられ、ご聖櫃はもはや祭壇の上には存在せず、「祈りと黙想にもっと適した場所」に移されているのです。この理由により、司式者は天主ではなく会衆の方を向くのです。

国務省の布告は、聖ペトロ大聖堂の規則に対する軽視や、署名やプロトコル番号がないという偽善的な巧妙さを超えて、善意であるにもかかわらず、いわゆる「公会議後」という広い文脈で捉えようとせずに個々の行為を考察することを強く主張する人々が、認めたくも反対したくもない事実を最新の形で確認するものです。

バーク枢機卿が最近の声明で言及しておられるように、第二バチカン公会議が私誦ミサの価値を再確認しているのは文書の上では本当のことですが、実際には、私誦ミサを絶滅の運命にある「懐古主義者」(nostalgics)や風変わりな信徒グループの特権にしてしまいました。典礼学者がこのようなテーマで勿体ぶって話すときの見下したような態度は、苦しんでいる教会の体の中で生き残ってきたカトリック的なものに対する不寛容さを示しています。

この立場に沿って、ベルゴリオは、至聖なるマリアの仲介者と共贖者の称号を平気で否定することさえやってのけるのですが、それはただひたすらルター派を喜ばせることだけを意図しています。何故ならルター派は、『教皇崇拝者ども』が一人の女性(聖母)を偶像化することでイエズス・キリストが唯一の仲介者であることを否定している、と主張しているからです。

今日、聖ペトロ大聖堂(バシリカ)での私誦ミサを禁止することは、他のバシリカや世界の教会での乱用を正当化するものであり、この私誦ミサ禁止は明確に規定されたことがないにもかかわらず、すでに数十年前から実施されています。そして、この乱用が表面上の公的な命令という手段によって課せられていることが、さらに重要であり、その命令によって、国務省当局が、"権威に対する敬意の恐れ(reverential fear)"を使って、カトリックであり続けたいと願う人々 --- 現在の位階階級がその反対の努力をしているにもかかわらずあくまでもカトリックたろうとする人々 --- を沈黙させるということを意味しています。

しかし、ベネディクト十六世以前の過去においては、聖ペトロ大聖堂で聖なるミサを捧げようとする者は誰であれ、決して楽な生活を送ることはできず、トリエント典礼は言うに及ばず、あえてラテン語でノブス・オルド・ミサを捧げようとするだけで、破門された「避けるべきもの」(vitandus)のように神殿から追放されていたのです。

もちろん、新近代主義者にとっては、私誦ミサを禁止することができますし、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の廃止を求めようともするでしょう。なぜなら、サンタ・マルタ館の最も熱心なおべっか使いの一人である「マックス・ビーンズ」(Max Beans)【教会歴史家の米ヴィラノヴァ大学教授マッシモ・ファッジョーリ(Massimo Faggioli)のこと。ファッジョーリはイタリア語で豆の意味】が最近認めたように、トリエント典礼は「公会議の神学」と本質的に対立する教理を前提としているからです。

しかし、私たちは聖ペトロ大聖堂での私誦ミサの禁止というつまずきにまで至ったのであれば、典礼的、教理的、道徳的な分野で、「オヴァートンの窓」の原理を適用して、段階的に進めていく革新主義者たちの「手口」(modus operandi)に負うところも大きいのです。それを知っておきましょう。つまり、異端者や離教者へのこういった品位を欠いた目くばせ(合図)は、カトリック以外の宗派を対象とした戦略に沿ったものであり、その戦略は、キリスト教ではない宗教や今日優勢になっている新異教イデオロギーを対象とした幅広い戦略の中で真の完成を見るのです。これが、この世とそのかしらを喜ばせるために、キリストの敵を意図的に喜ばせるという意志を理解する唯一の方法です。

このような観点から理解すべきなのが、次のようなことです。つまり、バチカン大聖堂のファサードへの動物の投影司教や聖職者の肩に乗せられたパチャママの像の入場ベルゴリオが司式するミサでペトロの信仰告白の祭壇の上に置かれた母なる大地に捧げられた供え物、キリストの代理者の称号を拒否する者による教皇祭壇の使用放棄、パンデミックを口実にした典礼行事の禁止とその共産主義政権の人格崇拝を想起させる儀式への置き換え、「世界統一主義的な環境保護主義」(globalist ecologism)の新しい典礼に合わせるために聖ペトロ広場を完全に闇の中に浸らせること、です。この現代の金の子牛は、シナイ山から降りてくるモーゼの再来を待ち望んでいます。新たな偶像崇拝者たちであるサンタ・マルタ館のアーロンの追随者を追い出した後、カトリック教徒をまことの信仰に復興させるような現代のモーゼを待望しています。この世で天主の権威の代理を務める者が、キリストから司牧するようにとの命令で委ねられた霊魂たちを誤謬において固めるために、その権威を乱用する態度ほど、愛徳から程遠いものはありません。羊小屋を開けたままにしておいて羊がそこから出てくるのを奨励し、飢えた狼の顎に送り込むような牧者は、傭い人であって悪しき者【悪魔】の味方であり、最高の牧者【キリスト】に説明しなければならなくなるでしょう。

https://lanuovabq.it/it/idolatria-e-senso-della-chiesa

この何度目か分からないほどのつまずきに直面して、私たちは高位聖職者たちの臆病で共謀的な沈黙にがっかりしてしまうかもしれません。他の枢機卿はどこにいるのでしょうか、大聖堂の名誉大司祭はどこにいるのでしょうか、私と同じように毎朝、聖ペトロ大聖堂で私誦ミサを何年も捧げてきたレ枢機卿はどこにいるのでしょうか。これだけの乱用に直面して、なぜ彼らは今、沈黙しているのでしょうか。

パンデミックや時の権力者による天賦の権利の侵害の際に世俗の領域で起こったように、教会の領域でも独裁者は自らを押し付けるために、気骨や理想を持たない臣民を必要としています。他の時代であれば、バチカン大聖堂は、(抗議する)司祭たちに包囲されていたことでしょう。何故なら司祭たちこそが、厚かましくも民主的でシノドス的であるように自らを見せかけているこの憎むべき専制政治の最初の犠牲者となるからです。

世界統一主義の名の下に確立されつつあるこの世の地獄は、多くの、あまりにも多くの聖職者と信徒の怠惰と臆病の結果である、あるいはむしろ裏切りの結果以外の何物でもない、などということがあってはなりません。

キリストの神秘体である教会は、自らのかしらの苦しみを自らの肢体で完成させるために、その受難に近づいています。贖い主のご復活を前にしているこの数日の時が、私たちを祈り、償い、犠牲へと駆り立てますように。それによって、まことの愛の絆において、敵に善を行い、罪人の回心 --- しかも世俗のそして教会の長上として私たちを苦しめるように御摂理が按配した人々のために --- を天主に乞い願うことを可能にする諸聖人の通功の教理により、贖罪と償いの精神で、私たちの主の聖なるご受難に私たちが一致することができますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年3月31日
聖週間の水曜日(聖水曜日)

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