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アルド・マリア・ヴァッリによるインタビュー「トリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきである。」

ヴィガノ大司教「私たちは、司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げるように願い、世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを覚えましょう。いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるでしょう。」

ヴィガノ大司教「もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝された秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として私は繰り返し述べたいと思います。

アルド・マリア・ヴァッリによるモンシニョール・カルロ・マリア・ヴィガノとのインタビュー

アルド・マリア・ヴァッリ(イタリア人ジャーナリスト)
【アルド・マリア・ヴァッリ】大司教様、あなたの度重なる発言やさまざまなブログの活動を通して、私たちは、新世界秩序(New World Order)のイデオロギーによって押し付けられた暴政であるかのように教会内に広がっている背教をあらゆる方法で非難しています。そしてこの新世界秩序に教会の位階階級は完全に服従しているように見えます。

これらのテーマに関しては、家族そして友人の間でも、分裂がこれまで以上の速さで進んでいることが注目されています。この世と教会の問題に関しては、根本的に分かれた判断があり、相互理解を認めないような二極化があります。それはまるで、二つの異なる文化、二つの異なる人間学、そして二つの異なる信仰が現れたかのようです。このような状況の中で、私たちが真理への愛を守りたいと願うなら、どのように振る舞うべきなのでしょうか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】あなたの言われる通りです。いわゆるパンデミックを口実に始まった新秩序の構築は、多くの人に心の平穏と静けさを失ったと感じさせ、私たちを圧倒してその前では無力だと感じる悪を認識させ、家族や親戚、友人の間の分裂や争いを激しくさせます。私たちは、十分に成長して善悪を見分けることができると信じていた身近な人々を、嘘が説得に成功してしまうのを見て、悲しくなることがよくあります。私たちの友人たちが、主流メディアの大げさな宣伝に惑わされ、実に催眠術をかけられていると言ってもいいほど、信じられないように思えます。私たちが良心的だと思っていた医師たちは、ある種の狂った迷信の名の下に合理性を放棄することで、自らの科学的知識を抹消してしまったかのようです。昨日までナチズムや共産主義の恐怖を非難していた知人たちは、これらの独裁政権の恐怖が、より非人間的で冷酷な形で再提案され、強制収容所での実験や世界の人々の天賦の権利の侵害がより広い規模で再現されていることに気付いていません。

私たちは、教区の司祭が新型コロナウイルス感染症についてあたかも疫病のように語り、市長が位階階級の人物のように振る舞い、家族がテラスでバーベキューをしたからといって隣人が警察に通報するということがどうして起こり得るのか理解できません。かつて勇猛果敢に戦い、命をかけていた高齢者が、治療可能なインフルエンザによって文字通り恐怖にさらされています。しっかりとした倫理観を持った家庭の父親は、自分の子どもが悪徳や倒錯した教育を受けていることを容認し、自分が受け継いできたものや信じてきたものにはもはや価値がないかのようにしています。国を愛すること、国境を守ること、国家主権について語ることは、今やファシストとみなされています。

そこで、私たちは自問するのです。私たちが愛してきたイタリアはどこにあるのでしょうか。私たちに信仰を教え、天主の聖寵の中で私たちを成長させてくれた教会はどこにあるのでしょうか。わずか数年の間に、これらすべてが取り消されてしまったということはあり得るのでしょうか。

今起こっていることは、世俗の領域でも宗教の領域でも、何十年も前から計画されていたことは明らかです。また、多くの人々が、非常に多くの人々がこれまで騙されてきました。つまり、まず、私たちの信仰や価値観を共有していない人々に権利を与えるように説得し、次に、カトリックであるという事実や、彼らの考え、彼らの過去に対して、多くの人々にほとんど罪悪感を抱かせるまでにしたのです。今日、私たちは時代に逆行した者、狂信者としてかろうじて許容されるというところまで来ていますが、一方では、数千年もの間、文明生活の基礎を構成してきたことを行うことを犯罪としようと望み、天主に反する、自然に反する、そして私たちのアイデンティティーに反するあらゆる行為を正当なものとするだけでなく義務と宣言しようを望んでいる人々もいます。

私たちの社会全体を巻き込んだこの激動に直面して、光の子と闇の子の間に生じる分裂は、ますます明確になっています。これは、勇気ある断固とした選択をするために、天主から与えられた聖寵です。主の言葉を思い出しましょう。「私が地上に平和をもってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣(つるぎ)を持ってきた」(マテオ10章34節)。

数十年にわたって私たちが耳にしてきた平和主義は、善き人々を武装解除し、悪しき人々を自由にして彼らの不正な行いをさせるだけのものです。ですから、「神の国」に属する者とこの世の君に仕える者との間の分裂や分極化も、私たちの目を開かせるのに役立つのであれば歓迎すべきことなのです。真理を愛するということは、必然的に嘘を憎むということであり、二人の主人に仕えることができると考えるのは、思慮が浅く、幻想に過ぎません。

今日、キリストの御国と新世界秩序の専制政治との間で選択を求められているのであれば、私たちはこの選択を避けることはできず、首尾一貫して実行し、殉教に至るまで主の証人となる力を主に求めなければなりません。福音が 世界統一主義(globalism)という反福音と和解できると言う人は嘘をついています。それは、すべての宗教が平和的に共存できる戦争のない世界を提案する人も嘘をついているのと同じです。キリストの御国以外に平和はありません。「pax Christi in regno Christi」(キリストの御国におけるキリストの平和)。

もちろん、戦闘を成功させるためには、私たちを導いてくれる将軍たちや司令官たちを頼りにしなければなりません。しかし、彼らのほとんど全員が脱走や裏切りを好んでいたとしても、私たちは無敵の指導者である至聖なる童貞を頼りにすることができ、聖母の子らと教会全体への保護を呼び求めることができます。聖母の強力な導きの下で、私たちは何も恐れることはありません。なぜなら、聖母こそがいにしえの蛇の頭を打ち砕き、サタンの傲慢が壊した秩序を回復してくださるからです。

【ヴァッリ】典礼と聖なるミサについてお話ししましょう。いくら善意のカトリック信者であっても、「古い典礼のミサ」(Vetus Ordo Mass)に参加できるわけではなく、本当の正しい意味での乱用はないとしても、しばしば典礼的に礼を失した小教区のミサで「自らを満足させ」なければなりません。これらのミサでは、ご聖体を立ったまま手で受け、「天にまします」は[イタリア語で行われるミサでは]新しい定式文に従って唱えられ、出席者は[平和のしるしの代わりに]「平和の視線」を交わすように招かれ、(いくつかの側面に触れただけの)ベルゴリオ主義に沿った説教を聞くのです。結局のところ、彼らは悲しい気持ちで、控えめに言っても、天主や兄弟と和解した平和な気持ちではなく、ミサを後にするのです。では、彼らはどうすればいいのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちはまず、カルワリオの犠牲による無限の聖寵を祭壇の上で血を流すことなく永続させるために、主によって制定された最高の礼拝行為が、霊的進歩と内的平和の機会ではなく、信徒の聖化の障害物となってしまったということが、いかにしてあり得るのかを自問すべきです。他の時代には、ミサはこの世の試練と混沌の中で天国を垣間見させてくれましたが、今日では、この世の喧騒は、沈黙、祈りによる礼拝、そして聖なるものや天主の現存という感覚を追い出すための不可欠な要素であるように思われます。しかし、自然の秩序において、健康的な食べ物で体を養い、毒や混ぜ物の入ったものを避けることが私たちの義務であるならば、超自然の秩序において、健康的な栄養で霊魂を養い、霊的に毒となるものを避けることは、なお一層私たちの義務です。

もちろん、聖伝のミサ聖祭が行われている教会を見つけるのが難しいという信徒の気持ちは理解できますが、主は、聖なる犠牲が私たちの霊魂にとって重要であることを認識している人々の善意を評価する方法も知っておられると思いますし、特に私たちが経験しているような大きな危機の時には、その理由のために、信徒は、少なくとも日曜日には、主日をふさわしく聖別するための小さな努力をする方法を知っていると思います。

カトリック教徒が迫害され、ミサに出席することが困難で危険な時代や場所があったにもかかわらず、信徒たちは天主を敬い、天使のパンで自らを養うために、森の中、地下室、屋根裏に密かに集まることに成功したのです。私たちは、言い訳や口実を作らずに、このような信仰の兄弟にふさわしい者になる義務があります。

一方で、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)は、聖伝のミサを持つ信徒の権利(特権ではなく権利)を認めていますし、これがどこでも実現していないとすれば、それは信徒がいかにして自分を強く主張するかを知らないことが大きな原因です。これは、美学への関心や、ラテン語やグレゴリオ聖歌への愛、あるいは一種の自分の過去を懐かしむこととしての問題ではありません。

私は、多くの信徒の皆さんが、時には何マイルも離れた場所にある聖伝のミサを探し求めるために、自分の教区の生活を放棄するかどうかを決断しなければならないとき、少なくとも人間的な観点から見て、困難な状況に置かれていると思っているのを理解しています。少なくとも、舌の上にご聖体を授ける敬虔な司祭が礼儀と敬意を込めて捧げるミサを探すことは、信徒の持つ重大な道徳的義務でしょう。

パンデミックは、典礼行事に対して不正に制限を加える口実となりました。私たちは、品のないミサや冒涜的なミサを押し付けられるのを黙認したり、諦めたりすることで、これらの不正の責任を自ら負わないようにしましょう。天主は、私たちに対する天主の愛に私たちがお返しする際の無関心と無頓着さにも怒っておられます。この無関心さは、聖土曜日に教会でワクチン接種を受けることさえ許し、「終わりのこと」【四終=死、審判、天国、地獄】に関する黙想を肉体的の死への根拠のない恐れに置き換えている信徒の中にますます見受けられます。

聖職者と位階階級が腐敗して腐敗させる権威の「絶対的命令」(diktats)の奴隷となっているのがこのように明らかであることに直面して、大きく声を上げることは道徳的な義務であるだけでなく、司祭職の感覚と召命の魂を忘れてしまった多くの教会人の行き過ぎた行為にブレーキをかけることでもあります。特に、疑似科学的な迷信が信仰の唯一の形態となり、一つの宗教の象徴、語彙、儀式性を流用する場合には、新型コロナウイルス感染症の物語に協力することがいかに深刻なことであるかを彼らは真剣に考えるべきです。聞く耳のある人には理解してもらいましょう。

ですから私たちは、私たちの司祭たちに、聖なるミサを人生の最初で最後のミサであるかのように捧げ、このような世俗的な儀式を廃止し、司祭たちがかたくなに隠している宝物を私たちに返してくれるようにお願いしましょう。勇気を持って一貫して聖伝の典礼を行う司祭たちに、物質的・精神的な援助を与えることを忘れずに覚えていて、いつの日か、彼らがキリスト教社会を回復するための基盤を再構築する人となるであろうことを覚えておきましょう。

そして、もし私たち自身が、使徒たちによって私たちまで受け継がれた典礼によって、定期的に聖なる犠牲(ミサ聖祭)にあずかることができないのであれば、祝されし秘跡(御聖体)を冒涜し、説教壇を使って信仰と道徳を堕落させる人々から距離を置きましょう。しかし私は、重大な不都合を伴わずにトリエント・ミサにあずかることが可能であれば、改革されたミサよりもトリエント・ミサを優先すべきであることを、自分の良心の義務として繰り返し述べたいと思います。

【ヴァッリ】「誰が教皇で、誰が教皇でないのか」という問題が再び提起されていることを、大司教様は間違いなく、もうご覧になっていることと思います。「ベルゴリオがザンクト・ガレン・マフィアの工作に基づいて選出されたことや、おそらくコンクラーベでの不正があったであろうことを考えると、彼は教皇ではない」と言う人々がいます。その代わりに、ラッツィンガーは、自由に教皇の聖座を放棄したのではなく、強い圧力によって強制されたと言われているため、さらに、辞任のラテン語の文章を無効にするためにわざと間違って書いたと言われているため、ラッツィンガーが教皇であると言われています。これは「幻想の教会」(fantasy church)なのでしょうか。それとも、真剣に検討すべき要素があるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】ベネディクト十六世をして辞任宣言をするに至らせた背景には、教会外部からと位階階級の有力者たちからの強くて不当な圧力、ヨゼフ・ラッツィンガーの個人的な性格など、複数の原因があると言われており、教会は深刻な不確実性と混乱の状態に陥っています。進歩的な陰謀家たちのグループの策動によって、ベルゴリオが候補者として指し示され、そのあと、ローマ教皇の選出を規定した使徒憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」(Universi Dominici Gregis)に違反したコンクラーベの中で、選出されたと言われています。これらの要素は、ラッツィンガーの退位を無効にし、2013年のコンクラーベを無効にし、後継者の選出をも無効にすると言われています。

しかしながら、それらのことについて広まっていて否定できない話も存在しますが、これらの要素は、教会の最高権威による確認、そして何よりも宣言が必要です。それを行う権威を持たない人々が行う宣告は軽率です。また、現在の状況では、誰が現在の教皇であるかという論争は、すでに分裂している教会の体の健全な部分を弱め、善き人々の間に分裂をもたらすだけだと私は考えています。

真実を明るみに出し、進むべき道を示していただけるよう、信頼を持って主に祈りましょう。今は、究極の目的に向かって手段を講じる「思慮分別」という聖徳を強く持って、教会が常に信じてきたこと、「常に、どこででも、すべての人によって、信じられていたこと」(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est)に忠実であり、油断なく守っていきましょう。

【ヴァッリ】多くの点で複雑で混乱しているこの時代に、あなたの祈りはどのようなものですか。どのようにして私たちの主に立ち返ればいいのか、私たちに提案していただけますか。

【ヴィガノ大司教】今日起こっていることは、国々の公の罪、個人の罪、そして恐ろしく聞こえるかもしれませんが、教会人の罪のせいです。私たちは、国々の罪にも位階階級の罪にも介入することはできませんが、謙遜さと、自分の罪や不忠実、生ぬるさを改めるというまことの回心の精神を持つことから始めることができます。ですから、新ファリザイ派の人々がこの世の評価を喜んでいるとき、彼らの回心を祈ることに加えて、私たちは次の福音の言葉で自分のために主の御あわれみを懇願しなければなりません。「ああ、天主よ、罪人の私をおあわれみください」(ルカ18章13節)と。

社会、そしてなおさら教会は、私たちの忠実さと、天主の聖寵と至聖なる童貞のご保護のもとに私たちのために用意された聖性の道を歩むことによって、大きな利益を得ることになるでしょう。私たちの主が十字架上で私たちの母として与えてくださった聖母に依り頼むことに信頼を置くのを、自ら奪い去らないようにしましょう。

【ヴァッリ】間もなく復活祭です。すべてのことにもかかわらず、主は復活されます。私たちは、希望の理由を見つけたいと思います。これは難しい企てですが、私たちにできるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちにできるというだけではありません。私たちはその信仰を持たなければならず、さらに希望の徳をも働かせなければなりません。この希望の徳によって、罪を避け、善を行い、天国の永遠の至福を得るために必要な聖寵を主が与えてくださるのだということを知るのです。私たちは、「in hac lacrimarum valle」(この涙の谷)の巡礼者であり、私たちの故郷は、天使や聖人とともに、三位一体の栄光のうちにある天のエルザレムであることを忘れないようにしましょう。

「Surrexit Dominus vere」(主まことによみがえり給えり)、復活祭の典礼はそう宣言しています。主は決定的に復活し、サタンに対して勝利を収め、アダムが原罪で署名した自筆の奴隷証書をサタンから奪い取ってくださいました。現在の試練、つまり、私たちを押しつぶし、打ち負かそうとする強力な戦列に対して、見捨てられ、孤独であることへの恐れは、私たちを怯えさせるものではなく、ご自身のことを次のように言われた方への信頼を新たにするように駆り立てるものです。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。

この聖なる復活祭が、私たちを天主へと立ち返らせ、私たちに罪びとの回心のために贖罪と償いの精神をもって試練と苦難を捧げさせ、それによって、ゲッセマネの杯を分かち合った後に、私たちが復活の栄光に値する者となることができますように。

2021年の聖木曜日

このインタビューはイタリア語版ではこちらで初公開されました。

ヴィガノ大司教のご要望により、英語版はThe Remnantに掲載されています。

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