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ヴィガノ大司教「フランシスコの『伝統主義者だけを厳しく扱わねばならない』という主張の偽善」(2021年2月3日)

[編集者注]
元在米教皇大使であり、今では引退しているカトリック高位聖職者のカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の記事を参考情報としてご紹介いたします。お話の内容はとても手厳しいものです。

ヴィガノ大司教は、カトリック教会に属する大司教として、カトリック教会の名誉のために、自分の良心にかけて、今、カトリック教会を愛するがために命がけで発言しています。厳しい発言も、ひたすら教会の利益のためになさっておられます。

社会的激変を経験している今のバチカンと世界の動きの理解を深めるために、ヴィガノ大司教が今のバチカンの動きをどのように見ておられるのかを、繰り返しますがあくまでも参考情報として掲載いたします。

ヴィガノ大司教はこの記事では、第二バチカン公会議後「1958年以前のあらゆる教義、あらゆる信仰の真理、あらゆる教導職の文書、あらゆる教皇の発言について議論し、異議を唱え、拒否することが許されている」ばかりか、さらには宗教や信条を問わず対話し交流し「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹である」ことが可能とされていることを指摘します。

至聖なる三位一体、イエズス・キリストの神性、死者のための取り成しの教理、ミサの聖なるいけにえの目的、全実体変化、至聖なるマリアの終生童貞というカトリックの教えや信仰を否定する聖職者たちがいても、彼らはいかなる教会法上の制裁を受けることもない、とヴィガノ大司教は指摘します。

ただし唯一、制裁を受けるケースがある、それは第二バチカン公会議に従わないことだ、とも元教皇大使は言います。
言い換えると、ヴィガノ大司教の指摘に従えば、第二バチカン公会議は「新しい教会の唯一の公会議」です。

第二バチカン公会議以前の教会の過去については、それが2000年間絶え間なく続いてきたことであろうと容赦なくどのような批判も否定も軽蔑も許されていますが、第二バチカン公会議の新しい指針についてだけは神聖にして犯すべからずとされていることです。「公会議前の宗教」は「古くて軽蔑され推奨されない」とされる、とヴィガノ大司教は言います。つまり第二バチカン公会議以後の教会は、過去の教えと断絶しようとしているのです。

「奇妙なこと」であるとヴィガノ大司教は言います。何故なら「エキュメニカルな開放性、シノドスの道、そしてパチャママは、唯一の欠点が信仰を捨てないというだけのカトリック教徒に対しては不寛容さを示す」からです。

元教皇大使はさらに理由を付け加えます。「壁ではなく橋をつくる」ためにすべてが許される中で、カトリックの信仰にしがみ付くことだけが処罰に値するとされているからです。「教理よりも司牧が優先する」とされ、司牧の名前でカトリックの教えが踏みにじられていたとしても、第二バチカン公会議の新しい教えだけは全てに勝っているからです。

ヴィガノ大司教「フランシスコの『伝統主義者だけを厳しく扱わねばならない』という主張の偽善」

アタナジオ信経の「誰でも救われんと欲するものは」
あるいは
第二バチカン公会議の偶像崇拝について

Similes illis fiant qui faciunt ea,
et omnes qui confidunt in eis.

これら[偶像]を造る者と、これらに信頼する者とはみな、
これらと等しい者になるだろう。
詩編113章16節

かつてカトリックであった国々が、中絶や安楽死、ジェンダー理論、同性愛の「結婚」を推し進める法律を導入しています。一方で、米国では、合法的に選出された大統領が、ホワイトハウスにおけるその地位を奪われたと見られています。その代わりに、腐敗して堕落した中絶推進派の「大統領」が巨大な詐欺によって権力の座に据えられ、ベルゴリオ【教皇フランシスコのこと:イタリア人は、よく教皇のことを名字で呼ぶ】と進歩的な司教たちのへつらいの拍手を受けているように見えます。また他方では、世界の人々が、心理パンデミックや効果のない危険な偽ワクチンの押し付けで利益を得る策略家や陰謀家に人質に取られています。フランシスコはそれらの社会的激変とは関係のないこと、カテキズム教育に気遣いを示し、1月30日にイタリア司教協議会(CEI)の全国カテキズム・オフィスの選ばれた聴衆のために上演された一人語り(以下のアドレス参照)の中ではカテキズム教育に焦点を当てています。このショーは、カテキズム事務局が「第二バチカン公会議後のカテキズムの刷新に欠かせない道具」としてできて60周年を記念して上演されました。

この一人語りは、おそらくイタリア司教協議会の灰色の役人が概略の形で書き、この荘厳なる演説家が得意とする即興のおかげで即席的に展開したものです。この一人語りにおいては、公会議の教会の信徒にとって大切な言葉がすべて使われています。何よりもまず第一に、「ケリグマ」(kerygma)という言葉です。この言葉は、すべての良き近代主義者がギリシャ語の用語の意味をほとんどいつも知らないにもかかわらず、説教の中で決して省くことができないものです。多分、彼はアクセントや語尾も分からず、使用を遠慮することさえも知らないのでしょう。明らかなことですが、第二バチカン公会議の反復を繰り返す人々の無知は、聖職者が新しい方法による「創造的な」アプローチを特権として持つためにカトリックの教理を脇に置かざるを得なくなったため、それ以来、「統治の道具」(instrumentum regni)となっています。確かに、「ケリグマ」の代わりに「告げる」という言葉を使用すれば、新参者たちのスピーチをつまらないものにするでしょうし、さらに、固く禁じられたトリエント公会議後の概念主義にしがみつく大多数に対する、このエリート階層の軽蔑的な不寛容さを明らかにするでしょう。

革新主義者たちが聖ピオ十世のカテキズムを全力で嫌っているのは偶然ではありません。このカテキズムは、聖務日課やカテキズムの問答において、カテキズム教師の創造性にいかなる余地も残しませんでした。カテキズム教師は---- 過去の60年間もはやそうではありませんでしたが ----、そもそも自分が受けたものを伝える人なのであって、聞き手を刺激しないように時に応じて伝えるべき真理と脇に置いておくべき真理を選ぶという、救いの歴史についての捉えどころのない「個人的な回想」を伝える人ではありません。

あわれみ深いベルゴリオの教会、公会議後の教会の相続者(どちらも、教会に関するカトリック的なものはもはや何もない一つの精神が変異したものです)においては、1958年以前のあらゆる教義、あらゆる信仰の真理、あらゆる教導職の文書、あらゆる教皇の発言について議論し、異議を唱え、拒否することが許されています。それ以来、フランシスコの言葉によれば、人は「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹である」ことが可能です。あらゆる信仰者は、聖書や天主的聖伝、使徒的教導職による不変の教えに公然と矛盾する現在の偽りの教導職の非常に重大な暗示するものをはっきりと理解することができます。しかし、何十年にもわたってカトリック教徒を公会議の「再プログラミング化」した結果生じたナイーブな犠牲者は、異端者、抗議者、そして悪徳に身を委ねた人々からなるこの複合的なバベル【混乱】の中でも、正統的で、ローマ教皇の献身的な民で、高潔な人々のための、少なくともある程度の居場所が残っていると信じることができたかもしれません。

信仰に関係ないすべての兄弟とは? 寛容で曖昧な受け入れというこの原則は、制限を知りません…実際にカトリックであることを除いては。事実、1月30日にサラ・クレメンティーナ【教皇宮殿のホール】でベルゴリオが発した一人語りには、次のようにあります。

【引用開始】
「これは教導職です。公会議は教会の教導職です。皆さんは教会の一員であり、したがって皆さんは公会議に従うのです。もし皆さんが公会議に従わなかったり、自分の好きなように公会議を自分なりに解釈したりするのであれば、皆さんは教会の一員ではありません。この点については、私たちは厳しく、厳格でなければなりません。公会議は、これら以上のものを持つために交渉すべきものではありません…いや、あるがままの公会議です。そして、私たちが経験しているさなかの、公会議に関する選択性に属するこの問題は、他の諸公会議との歴史を通して繰り返されてきたのです。」
【引用終わり】

読者の皆さんは、私たちの説教者の不確実な散文に惑わされることのないよう、ご注意ください。彼は、彼の「オフレコの」即興の中で、教理上の混乱と構文の解体を組み合わせています。カテキズム教師への演説のメッセージは、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)のあわれみ深い言葉を矛盾に陥らせ、この「回勅」書簡のタイトルを、「カトリック教徒を除くすべての兄弟」へと必要な変更をせざるを得なくさせました。そして、カトリック教会の諸公会議が教導職の一部であることがまさに真実であり、受け入れられるのであれば、同じことが新しい教会の唯一の「公会議」には言えないのです。この公会議は、私が何回も述べてきたように、主の群れの牧者によって行われた最も巨大な欺瞞を構成しています。この欺瞞は、――繰り返しは有益です(repetita juvant)――共謀する専門家の一団が、天主なる創立者が聖なる教会を設立なさったときに確立した目的とは反対の目的で、権威や教導職の行為、教皇の言説、各省の文書、典礼のテキストなど教会統治の道具を使用することを決定した瞬間に起こったものです。そうすることで、信徒は、古くて軽蔑され推奨されない公会議前の宗教の聖なる権威を奪った、これまで以上にあからさまに反カトリック的で最終的には反キリストの新しい宗教に従わざるを得なくなったのです。

それゆえに、私たちは、至聖なる三位一体、イエズス・キリストの神性、死者のための取り成しの教理、ミサの聖なるいけにえの目的、全実体変化、至聖なるマリアの終生童貞といったものを、否定してもいかなる教会法上の制裁を受けることもないと聞くという奇怪な状況に置かれているのです(これがその制裁を受けるケースであれば、第二バチカン公会議と現在のローマ教皇庁のほとんどすべての顧問は、すでに破門されていたことでしょう)。しかし、「もし皆さんが公会議に従わなかったり、自分の好きなように公会議を自分なりに解釈したりするのであれば、皆さんは教会の一員ではありません」。ベルゴリオが、公会議へのいかなる批判に対しても、このような厳しい非難をしている注釈を聞くと、私たちは本当に信じられないという気持ちになるのです。

【引用開始】
「この状況を見て、『私たちこそがまことのカトリック教徒です』と第一バチカン公会議の教理ではない『まことの教理』を継続させるために、第一バチカン公会議後に去って行った司教たちのグループ、信徒のグループ、複数のグループを私は思い浮かべます。今日、彼らは女性を叙階しています。」
【引用終わり】

注目すべきなのは、第一バチカン・エキュメニカル公会議の不可謬的に定義された教理に従うことを拒否した「司教のグループ、信徒のグループ、複数のグループ」は直ちに非難され、破門されましたが、今日では彼らは「信仰に関係なく」両手を広げて歓迎されたであろうこと、当時「古カトリック」を非難した教皇たちならば、今日では第二バチカン公会議を非難したであろうこと、そして、この教皇たちはベルゴリオから「教会とともにいない」と非難されたであろうことです。一方で、最近の発明品である女性読師や女性侍祭は、キリストの教えを放棄した者が必ず行き着く「今日、彼らは女性を叙階している」というところへの前触れ以外の何ものでもありません。

奇妙なことに、エキュメニカルな開放性、シノドスの道、そしてパチャママは、唯一の欠点が信仰を捨てたくないということだけであるカトリック教徒に対しては不寛容さを示すことを妨げないのです。そして、ベルゴリオが「教会の教導職に同意しないカテキズム教育を提示しようとする人々には譲歩しない」と話すとき、彼は、自分自身を否認するのです。使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)の中で、壁ではなく橋をつくる人々を得るために(これはサンタ・マルタ館の廷臣たちにとって大切な表現です)理論化されていることですが、教理よりも司牧が優先する、を否認しているのです。

ですから、今から私たちは、アタナジオ信経の「書き出しの語句」を、次のように現代化することができます。
Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est, ut teneat Modernistarum hæresim.
(誰でも救われんと欲するものは、まず近代主義の異端を擁せねばならぬ)

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年2月3日
司教殉教者聖ブラジオ

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