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今さら「ちはやふる」---負けて見えるもの

さてさて、さらに色々と考えちゃう「ちはやふる」の登場人物やその背景。才能 vs. 努力のように表現している場面もありますが、エジソンじゃないけど1%のひらめきと99%の努力ということが描かれているのだと思います。

天才と一般人の間の溝
映画「アマデウス」ではモーツァルトの天賦の才に嫉妬したサリエリがどんどんモーツァルトを追い込んでいき、最後には死に至らしめるというお話。これはサリエリは天の神への復讐であって、モーツァルト自身への復讐でもなんでもない。

モーツァルトの行儀の悪さや非常識に見える行動と彼が作る美しい旋律にあまりにもギャップがあって、神様はなぜこんな下品な若者に才能を与えて、神様へのお祈りも欠かさないし努力もしてるし模範的な自分に才能を与えなかったのかという点に怒ったわけです。そして凡人の代表として神に復讐した。

天才肌のしのぶちゃんも彼女のファッションやスノー丸グッズ集め、嫌味な態度など、かるたクイーンであればマナーもセンスもクイーン級だという一般人の偏見がありギャップを生んでいる。

また周防さんも礼儀がなってないとか、かるたの手法で、ミスを誘う、勝敗の札数のコントロールなど、まぁそれも勝負の一環ではあるものの、勝負しない勝負をするというギャップ。加えて、かるたを好きでやってるわけじゃないという部分が現れていることでさらなるギャップを生んでいる。名人であればかるた好きなはずとか正々堂々とかそういう感じね。

このギャップが誤解を作るし、妬みの対象にもなり得る。
「わからない」「理解できない」は恐怖の対象にもなる。

負けることで見えること
だから原田先生も太一も周防さんにはかるたが好きな人が勝たなければいけないと考えたわけです。ここで勘違いしてはいけないのは、周防さんが卑怯だから負ければいいというのではない。周防さんに希望と情熱をもってほしいからこそ負けてほしいということです。つまり努力や情熱が勝つことで希望がない人に気づいてほしい、光に気づいてほしいということ。

だから新が挑まなければいけない。孤独で理解されなかった新が見つけた光の存在を教えられるのは恐らく新しかいないのでしょう。

また千早がしのぶちゃんに勝ちたいのも、確かに富士は草木も生えない荒野かもしれないけれど、私も一緒に上りますよということです。一緒なら荒野でも淋しくはない。そして見方を変えれば、頂から見える風景も違うのかもしれない。

ちなみに表にするとこんな感じ。

新は千早と太一に出会わなければ友人、先輩、師匠の部分がほぼないに等しかった。また千早と太一と友達になったことで、なんとか社会への適応はできるようになったと思われる。本当に千早に会っていなければこうはなっていないだろう。
また経済的背景は裕福ではないが、将来的には一応大学の推薦ももらったし、新聞配達、本屋でのバイト経験からもどうにか食ってはいけそう。

また周防さん、詞暢ちゃんは一目瞭然で、人や家族関係が希薄で、しかも将来の展望も不安定。名人だのクイーンだの言われてもこの孤独感と不安感は想像以上に大きいことがうかがわれる。

特に周防さんの将来への悲観は詞暢ちゃん以上である。親せきの人はいい人そうだし叔母の兼子ちゃんもとても優しそうだけど、両親の愛情を受けておらず帰る家が親せきの家なので帰れないとさえ思ってしまっている。

こうして表にしてみると千早も太一もごく普通に苦労もなく育ってきた人たちなのです。普通の人たちと友達になれたことは新にとって幸いで、彼が伝えるべきメッセージがあるのではないだろうか。


ちなみに千早が新を尊敬してるというふうに映画版の関係図に書いてあったけど、尊敬とか言われたら悲しいよね。それだけは止めてあげてほしい。
実際には同じ名人選候補者選定会の決勝に立った時点で千早、新、太一は尊敬とかじゃなく同じ目線になったわけで、太一も千早も精神的に追いついたから大丈夫だとは思うけど。
あぁ、色々考えると結末を見たくない。



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