見出し画像

『神のちから』を思う

さくらももこ先生が乳がんでお亡くなりになりました。53歳でした。

さくらももこ先生の代表作『ちびまる子ちゃん』は、生まれて初めて読んだエッセイ漫画です。エッセイ漫画でくくるのもどうかと思うのですが、当時は本当にあったことが漫画になっているという感覚が新鮮で、何が本当でどこまでが嘘かなど、兄弟間で議論したこともありました。実際はほとんどがフィクションで、漫画では仲睦まじいまる子とおじいちゃんですが、後にエッセイで実際のおじいちゃんとさくら先生は仲が悪いということを知りショックを受けました。家族でも嫌いな人がいていいという発言には考えるものがありました。今思えば、そんな不仲の家族をたくさん知っているのでそりゃそうだと思うわけですが。

そんなこんなで、さくら先生といえば、日常系の漫画が得意なエッセイストであるというイメージが世の中的にはほとんどなのではないかと思います。しかし、その実態は、日常の中に潜む狂気もとい、非日常の中にかろうじて日常をたぐりよせるセンスオブワンダーな不条理世界を表現する、マグリットや吉田戦車に続くシュール界のドンなのです!!(自分で言ってて意味がわかりません!)

そのような不条理な世界を『ちびまる子ちゃん』の片隅からも感じ取ることができますが、何よりその世界を真っ向からパッケージングしたのが『神のちから』(1992)という作品です。

中学生だった時分、担任の先生に「うんこさんはこの漫画好きだと思うよ」と勧められたのがきっかけです。当時はうんこさんと呼ばれていたことを今思い出しました。

まだ中学生です。全能感のプールに浸っている自分にしてみればまさにこの漫画を読むことで神の力を手にいれたような気になりました。こんな風に世界を切り取っていいのか!という手形を手にいれたような。この世界を自分も作るんだ!と意気込んだりもして、ああ恥ずかしい。しかもまだそんな感じのことやってる。ああ恥ずかしい。

とにかく何度も繰り返し読み、親友に勧めた唯一の漫画といっても過言ではないほどに影響を受けたわけですが、正直、ほとんど内容を覚えておりません。おそらく言語で楽しむ作品ではなく、気分を嗜む作品だからなのかもしれません。切り口と絵柄とセリフのバランス。そしてダークでブラックな世界が田舎の中学生男子の心にすっと刺さったのだと思います。ホラー漫画と捉える人もいるかもしれません。一つ一つにアイデアがあり毎回新しい発見がある。星新一のようななるほど〜とかじゃないんです。この世界を理解できるものは自分にしかない、という勘違いが自分を覆いました。先生が勧めてるのに。

先日ラジオで爆笑問題の太田さんがさくら先生と初めての出会いについて語っていましたがその中で「友蔵じいさんのケツの穴を覗くと宇宙が広がっているという話とか書きたいんだ、というさくらももこの会話が聞こえてびっくりした」というようなお話をしており、そういえば『神のちから』にそのような短編があったことを思い出しました。

拾い物の画像ですが、ケツの穴を覗くとドラマが放映されてるって話だったかな。なんてくだらないんだろう。

おそらく『ちびまる子ちゃん』でできない本当のことを『神のちから』で表現しているのではないでしょうか。

きっと僕らが知っている日常の世界と、村上春樹ではないが、井戸の底に広がる比喩的な不条理の世界を行き来しながらさくら先生は漫画を描いていた。この世とあの世を行き来する幽体離脱状態とでもいうべきバランスの中に身を潜めながら。

北野武が映画で笑いをやらないように、リヒターが具象と抽象を華麗に使い分けるように。表現者にはそのような二つの社会性が必要なのかもしれません。

一見でたらめな不条理の世界のガイドブックとしてもこの『神のちから』は力を発揮ました。その世界でもしっかりと「やっていいことと悪いこと」が存在しそしてこの世界のルールを守るにはとあるセンスが必要で、とあるセンスとは一体なんなのか?という話になると考えるのが大変なので書きませんが、本作を読んだことで自分はなんとなーーーーく心得くらいはそのセンスを会得したような気がしています。

不条理と言われるダウンタウンもラーメンズもジャルジャルもシティボーイズもその言語の上に成り立ち、村上春樹じゃないけれど井戸の底の世界へ行くことができる「神のちから」を持っている人たちなのではないでしょうか。

さくらももこ先生はきっとたぶん今、その世界にいるんだな〜と思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?