ツィッターと逃走線


ドゥルーズ=ガタリの思想において、「逃走線」は重要な概念の一つである。それは支配システムから逸脱し、新たな可能性を切り開いていく運動を指す。ツィッターはまさにこの逃走線の概念を体現する媒体なのかもしれない。

ツィッターは発信された情報が常に脱中心化され、分散していく。ある発信は他の発信と無作為に出会い、つながりながら渦を巻く。このダイナミックな流動性は、支配的な言説からの逸脱を促し、新しいアイデアを生み出す土壌となる。

加えて、ツィッター上では匿名性が高く、発信者の属性は曖昧化する。これにより、発信は特権的な立場から解放され、ヒエラルキーを超越する。周縁に追いやられた声が中心に迫り、マジョリティの言説に亀裂を生じさせる。このようにツィッターは、硬直した秩序からの逃走を可能にする。

さらに、ツィッターではハッシュタグの利用などによって、言葉が断片化され分子化する。言葉は制度的な記号としての役割を離れ、新しい連関をつくり出していく。まるで「超越論的なフィールド」のように言葉は常に新しい地平を生成し続ける。これはまさに逃走線の概念を具現化しているように見える。

しかし同時に、ツィッターには脱線のリスクも潜む。デマの蔓延や扇動的な言説は、むしろ硬直したシステムを再生産する可能性もある。そうした危険に気づきつつ、逃走線としてのツィッターの可能性を切り開いていく必要がある。

つまりツィッターは、脱中心化、非人称性、言葉の分子化といった側面において、逃走線としての機能を果たしうる。支配システムから逸脱し、新しい思考の地平を拓く装置としてのツィッターを、過剰な統制に囚われることなく活用していくべきだろう。

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