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*【#教育】「内村鑑三からフィヒテまで –- 欲得づくの学問は社会を荒廃させる」

...「拝金宗」(福沢門下の高橋義雄の著作名)の教祖が日本国の最高額紙幣の肖像になった1984年(昭和59年)とは、まさしくオーウェル(George Orwell, 1903-1950)がその年に起こることとして、全体主義諸国の世界分割という近未来の恐怖を描いた小説のタイトルであった。
 
そして、あたかもオーウェルの小説世界を具現するかのように、ソ連の共産体制とアメリカの対決が最終局面に向かって加速し、米国ではレーガノミックスと呼ばれる経済施策によって、ケインズ主義による福祉国家の行き詰まりを民営化と規制緩和という市場原理で解決しようとする新自由主義(ネオリベラリズム)に席巻されようとしていた。
 
中曽根首相とレーガン大統領が「ロン・ヤス」と呼び合い、日本にも米国の経済潮流が押し寄せ、このネオリベ経済を強力に推進した、小泉純一郎政権下の2002年(平成14年)には、道徳授業の副教材として『心のノート』がつくられ、愛国心が通知表で評価されるという、戦時下の日本にさえなかった前代未聞の発想さえ生まれた。

◆「市場」という一元的価値観による教育の骨抜き
 
こうして、本来人間社会への一つのものの見方に過ぎなかった「市場」というモデルが、社会の多くの諸関係に拡大適応され、そのイメージに基づいて世界を作り変えようとする施策が次々と打ち出され、2006年(平成18年)には、金融庁が、各都道府県の小学校、中学校及び高等学校(各470校)を対象に、金融経済教育に係る意識、取組状況及び金融庁への要望等の実態を調査した。その質問表には、「英米に比べて我が国で金融経済教育にまとまった授業時間が充てられない要因」という項目があるように、あらかじめブッシュ大統領とトニー・ブレア首相による英米の経済施策に追従することを前提としたこの「調査」によって、小中学生にまで「初等中等教育段階における金融経済教育」の重要性がうたわれるようになり、金融庁は「わたしたちの生活と金融の働き」なる中学生向けの図説パンフレットさえ作成した。
 
2006年10月24日に、富山県の高校で発覚した必修科目未履修問題は、その後次々と発覚し、公立高校の8%、私立高校の20%で単位不足の卒業が認められていた事実が判明し、なかには履修していない科目の成績が出ていたりする例さえあった。
 
人間的営為をコストパフォーマンスという観点のみから考える浅ましい政策が、教育上のモラルを空洞化し、学校現場を荒廃させたのである。高等学校必履修科目未履修問題は、あやまったネオリベ的施策によって、起こるべくして起こった事件であった。まさに、明治期に内村鑑三があれほど懸念していた「利慾を学理的に伝播」(『萬朝報』1897年4月24日)することの弊害が日本中に噴出したのである。

◆ フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』

「従来の教育法では、その知識の獲得が将来有用なることや、その獲得によらなければ衣食と名誉とを能わざることなどを説き、かつ直接その場の賞罰をも用いなければならなかった。—— かくの如く認識は始めより既に官能的愉悦の従者として取り扱われていた。そしてかかる教育は、その内容をもっては、上述のごとく道義的なる考え方を発達させる力なく、ただ生徒の心の外面に触るに過ぎず、時としては道徳的堕落をさえも植えつけまた助長し、そして教育の関心をこの堕落の関心と結びつけざるを得なくなったのである」

アメとムチによって「官能的愉悦」に訴えかける教育方法をフィヒテは、これではただ報酬がほしくて学習をする「道徳的に堕落した」子どもを作ってしまうに過ぎないという。

そして欲得づく実利主義的な教育で育てられた子供たちが、地位や財産を得れば何をしても良いと思う「道徳的に堕落した」大人になるのは自明だろう。

昨今の政治家の汚職から昨年末から連綿と続く有名大学の不祥事を考えても、この指摘が杞憂でないことはよくわかるだろう。

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