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*【#附属池田小事件】「〝凶悪なモンスターからいかに社会を防衛するか〟という観点のみで語られるべきなのか?」

... もちろん、罪なくして殺された子供たちが気の毒なのは言うまでもないが、この問題を「飛来するミサイルをこう防ごう」的なセキュリティーの問題とだけ考えるのは問題含みだ。

東京以外では、この「附属」という言葉は、旧制中学の流れをくむトップ校から旧帝大に進学する、エリート・コースを示す〈記号〉なのだ。

死刑になった犯人の宅間守も「エリートでインテリの子エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」と、この点に関して自覚的であり、宅間自身も同校を受験しようとした経緯がある。

◆ 語られざる〈階級〉の問題

宅間の生い立ちと言えば、暴力を振るう父親、母親のネグレクト、暴力的傾向から学業不振と、〝崩壊家庭〟の絵に描いたような転落人生である。

ところが、今年で20年になるこの事件を扱うマスコミは、「学校も安全な場所ではなくなった」等セキュリティーの問題ばかりであり、「エリートでインテリの子」の何倍、何十倍も存在するノン・エリートの青年たちは、監視と処罰という〈監獄〉的モデルの社会で生きることが自明視されている。

『ナニワの金融道』や『闇金ウシジマ』のような、カネと暴力だけがモノを言う社会は、漫画の中だけでなく、確実に現実に存在する。

一方で新自由主義的な構造改革によって〈格差〉が何か良いことのように語られ、他方で権利の〈平等〉が語られる偽善的社会では、〈階級〉の問題がタブーになってはいないか?

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